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第1章「鈴の記憶」

「あーがれ、あがれ!べーこどん、あがれ!」

 シャン!シャン!

 ドンドン、カッカッ。

 腹の底を叩くような太鼓の重低音に混じって、涼やかで、どこか寂しげな無数の「鈴」の音が、夏の終わりの湿った夜気に溶け込んでいく。

 視界を埋め尽くすのは、夜空を焦がすほどに連なる赤提灯。

 鼻をくすぐる焼きそばのソースの香ばしさと、微かな火薬の匂い。

 そして、人波の向こうからゆっくりと姿を現す、見上げるほどに巨大で、煌びやかな「牛」の神様。

 私がまだ、赤いランドセルを背負って野山を走り回っていた頃の、鮮烈な記憶だ。

 私の生まれ育った町には、夏の終わりに最高に盛り上がるお祭りがある。

 この辺り一帯を見下ろすダム湖にまつわる古い伝承、『牛鬼うしおに祭り』だ。

 その祭りの主役である牛鬼の山車(だし)を「牛どん(べこどん)」と呼んでいた。

 私たちの街を災厄から守ってくれる、強くて優しい神様。

 普段は静かな山間の町が、この日だけは別世界になったかのように熱狂に包まれる。

 私はその非日常の空気が、たまらなく好きだった。

「あーがれ、あがれ!べーこどん、あがれ!」シャン!シャン!

 小学四年生の私は、周囲の大人たちにも負けないくらい、誰よりも大きな声を張り上げていた。

 私の両手には、紅白の紐で結ばれた、大きな「鈴」。

 それをちぎれるくらい大きく頭上で振り鳴らして、練り歩く神様を歓迎するのだ。

「あがれ」という独特の掛け声。

 それは、「運気が上がれ」「景気が上がれ」、そして最後に打ち上げる「花火が高く上がれ」という、すごくおめでたい言葉なんだと、町の大人たちは笑顔で教えてくれた。

 だから私も信じていた。

 もっともっと声を枯らして叫んで、もっともっと鈴を鳴らせば、いいことが起きるんだって。

「ほらさつき、危ないから下がってなさい。山車にぶつかるわよ」

「やだ!私が一番前で鳴らすの!牛どんに聞かせるの!」

 心配そうに袖を引く母の制止も、今の私には届かない。

「どけよ!」と生意気を言うクラスの男子たちを、「あんたたちこそ邪魔!」と強引に押しのけて、私は特等席である最前列を陣取った。

 なぜだか分からない。

 けれど、私は物心ついた頃から、本能的にこのお祭りに惹かれていた。

 特に、「鈴の音」が聞こえてくると、魂が震えるように居ても立っても居られなくなるのだ。

 だから毎年、「お祭り行きたい!絶対行く!」と泣いてせがみ、両親を困らせては、必ずこの場所へ連れてきてもらっていた。

 ギシッ、ギシッ、と重厚な木のきしむ音を立てて、牛鬼が目の前を通過する。

 金箔で飾られた豪華絢爛な二本の角。

 そして松明の灯りを反射してらんらんと黄金に輝く、たった一つの「右目」。

 左の瞼は、何かに耐えるように堅く、ギュッと閉じられている。

 初めて見た子供が怖がって泣き出すこともあるその隻眼の理由を、私はお祖母ちゃんからこう教わっていた。

 みんなの「願い事」が叶うその日まで、あえて左目に栓をしているんだ。

 願いを逃さないための、我慢の片目。

 だから私は、その隻眼の顔が怖くなかったし、むしろ大好きだった。

 私が鈴を鳴らせば、その音色が「願い」となって、あの閉じられた左目の奥に溜まっていく気がしたから。

 その巨体が、沿道を埋め尽くす私たちの歓声と拍手、そして一斉に鳴らされる鈴の音を全身に浴びて、堂々と街を練り歩いていく。

「あーがれ、あーがれ!!」シャン!!

 もっと響け。もっと遠く、空の彼方まで届くように。

 そんな無垢な願いを込めて、私は無邪気に叫び続けていた。

 喉が枯れて声が出なくなるまで、夢中で鈴を振り続けた。

 あの頃の私は、男の子顔負けのおてんば娘だった。

 木登りもかけっこも、誰にも負けたくなかったし、じっとしていることが何より苦手だった。

 そんな私が変わったのは、中学一年生の時だ。

 学校の行事で行われた写生大会。

 私が描いた一枚の風景画――あのお祭りの夜を描いた作品が、県のコンクールで金賞に選ばれたのだ。


『坂本さんの絵からは……このお祭りの「鈴の音」が、そのまま聞こえてくるようだね』


 美術の先生にそう言われた時、私はただ純粋に、すごく嬉しかった。

 自分の見ていた世界が、誰かに伝わったことが誇らしかった。

 それからだ。大人になるにつれて、私の心が少しずつ変わっていったのは。

 お祭りに参加して声を張り上げるのも好きだけれど、それ以上に、静かに世界を見つめ、自分の中にある情熱や温度を、色としてキャンバスに閉じ込める時間。

 その静寂な熱狂が、私の心の奥底にある正体不明の「何か」を、優しく埋めてくれる気がして。

 気がつけば私は、放課後の美術室で絵筆を握るようになっていた。


 ――そして、十五歳の春。私の高校生活は、そんな風に始まった。

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