第39章「繋いだ手と手」
『魂の泉』を後にした三人は、敵の目を避けるため、道なき獣道を選び、山際を移動していた。
暑さの盛りが過ぎ、秋の気配が忍び寄っていた。
燃え落ちた城の方角から流れてくる風には、焦げ臭さと、むせ返るような晩夏の草いきれが混じっている。
蜩の悲しげな鳴き声が、終わろうとしている夏と、滅びゆく国を惜しむように響いていた。
「……姫様。水鏡隊には、今も語り草になっている『伝説の隊士』がいたことをご存知ですか?」
鈴音がふと口を開いた。
月夜見の足が一瞬止まる――しかし、すぐに歩きだし聞き返す。
「伝説の隊士?」
「はい。名を『かぐら』といいます」
鈴音の声が弾む。
「いつも白い狐のお面をつけていて、素顔は誰も見たことがありませんでした。体は小さくて華奢なのに、誰よりも強かった……。あの源太を指一本で投げ飛ばしたこともあるんです!」
月夜見は、口元に微かな笑みを浮かべ、少し悪戯っぽく尋ねた。
「ほう。それは豪傑だな。して、その『かぐら』とやらは、そなたたちの父――慈恩や秀綱よりも強かったのか?」
「ええっ!?」
鈴音は目を丸くし、千早と顔を見合わせて悩み始めた。
「うーん……父様たちと戦ったことはないから分かりませんが……でも、当時の私たちにとっては、間違いなく最強でした」
鈴音は困った笑顔をみせると、ふと遠い目をした。
「でも……三年ほど前、村上家先代の国主様が亡くなられた頃に、ふっと姿を消してしまったんです」
「…………」
そこで鈴音は足を止め、月夜見の背中をまじまじと見つめた。
「……すみません、急にこんな話を。姫様の凛としたお姿を見ていたら、あの方を思い出してしまって……」
鈴音は少し首を傾げ、照れくさそうに付け加えた。
「あれから三年も経っていますし、もし会えたとしても、成長して美人になっていて、私たちには気づけないかもしれませんね」
「そうか、会えると良いな………」
月夜見は、正面を向いたまま静かに微笑んだだけで、それ以上何も話さなかった。
山の中腹、分岐点となる古びた祠の前で、月夜見は足を止めた。
「……ここでお別れだ」
「えっ?」
千早と鈴音が顔を見合わせる。
「姫様、何を仰いますか!私たちはどこまでもお供します!」
「ならぬ」
月夜見は、あえて冷徹な君主の顔を作った。
「三人で固まって動けば目立つ。敵の狙いは私の首だ。そなたたちと一緒では、かえって逃げにくい」
「そんな……!私たちが足手まとい……?」
鈴音が悲しげに問う。
月夜見は胸が張り裂けそうになるのを堪え、二人の肩を強く抱いた。
「違う。……守りたいのだ。これ以上、私のために誰かが死ぬのを見たくない」
月夜見の声が震える。
「千早、鈴音。そなたたちは海へ出よ。遠い地へ逃げ、名を変え、幸せな家庭を築け。……月光の国の民として生きた記憶を、そなたたちが生きて繋いでくれれば、この国は滅びぬ」
「姫様……」
「生きよ。……そして、いつか平和な世になった時、また会おう。……契約の痛みが、私たちを繋いでいる限り」
三人は涙ながらに抱き合った。
月夜見は一人、険しい北の山脈へ。
千早と鈴音は、南の海へと続く街道へ。
互いの背中が見えなくなるまで何度も振り返り、三人は別々の道を歩み出した。
――それから、二刻ほどが過ぎた頃。
日は西に傾き、山々を赤く染め始めていた。
千早と鈴音は、南への抜け道を探し、崖沿いの細い道を進んでいた。
「……静かだね」
「うん。……怖いくらいに」
二人は手を繋ぎ、互いの体温で不安を打ち消し合っていた。
その時、眼下の街道を、荒々しい足取りで行軍する集団が見えた。
巨大な戦斧を担いだ巨漢たちが練り歩く「牛頭軍」だ。
豪奢な輿に乗って酒を煽っている男――大将牛頭の姿があった。
「あいつは……!」
千早が息を呑む。
二人は慌てて岩陰に身を隠し、息を殺した。
このままやり過ごせば、二人は助かる。
南へ抜け、海へ出て、新しい人生を歩める。
しかし、風に乗って聞こえてきた牛頭の声が、千早の足を縫い止めた。
「けっ!まったく腹の立つ戦だったわ!……おい、もっと酒を持ってこい!」
輿の上で、牛頭は酷く泥酔していた。
左目は、どす黒い血が滲み出した分厚い包帯で荒々しく覆われている。
残された右目は憎悪で血走り、顔は赤黒く充血していた。
彼は手元の布包みを乱暴に解くと、中から転がり出たもの。
――宮嶋慈恩の生首を、膝の上に無造作に置いた。
「あっ……!?」
千早の喉から、押し殺した悲鳴が漏れる。
(大丈夫。……我慢して、千早)
「……おい、知恵袋。貴様も飲めぇ」
牛頭はふらつく手で盃を傾け、慈恩の生首の頭上から、ドボドボと酒を浴びせかけた。
酒が、慈恩の閉じた瞳や口元を濡らし、滴り落ちる。
「ひっく……。俺の手柄を……宝を……よくも騙しやがったな……」
牛頭はヘラヘラと笑っていたが、その表情は次第に痙攣し、不穏な怒りに歪み始めた。
「……なんだ、その顔は?」
牛頭は、慈恩の死に顔を覗き込んだ。
慈恩の顔は、「悪党の不敵な笑み」のまま固まっていた。
「……俺を馬鹿にしているのか?えぇ!?」
彼は酒瓶を投げ捨て、慈恩の髪を鷲掴みにして持ち上げると、狂ったように怒鳴り散らした。
「よくも俺様の目を……あぁ、疼きやがる……死んでも許さねぇぞぉぉ!!」
ドサッ!!
牛頭は力任せに、慈恩の首を地面に叩きつけた。
ゴロン、ゴロンと転がる父の首。
泥にまみれる頬。
千早をつかむ鈴音の手にさらに力が入る。
(千早、だめ……!お願い、もう見ないで!)
「うぅ……っ!!」
千早が岩を噛むようにして嗚咽を殺す。
彼は輿から降りると、よろめきながら慈恩の首へと歩み寄った。
「その薄気味悪い笑みを消せ……。俺を見下すなあああっ!!」
ドガッ!!
牛頭は、思いきり慈恩の顔面を思い切り踏みつけた。
「消えろ!玄馬様のご期待に応えられなかっただろうがああ!!」
グリッ、グリグリッ……!!
父の顔が、踏みにじられていく。
それは武人のすることではない。
ただの醜悪な八つ当たり。
死者の尊厳など欠片もない、外道の所業だった。
プツン。
千早の中の最後の理性の糸が、切れる音がした。
灼熱の業火が宿った。
(だめ……!生きなきゃ!)
鈴音は、飛び出そうとする千早の着物を必死に掴んだ。
千早は鈴音の制止を強引に振り切り、力任せに腰の刀を一気に引き抜いた。
シュッ――。
鋭い金属音が鳴る。
勢いよく抜かれた刃が、千早を止めようと伸びていた鈴音の人差し指を、鋭く切り裂いた。
指先から鮮血が飛ぶ。
「……い、痛っ!」
殺意に支配された千早は、自分が愛する者を傷つけたことにすら気づかない。
「んん?」
牛頭がその物音に気づき、崖上を見上げた。
「……鼠か」
目が合った。
千早は、もはや恐怖など感じていなかった。
あるのは、父への愛と、敵への純粋な殺意だけ。
「外道がぁぁぁっ!!おまえだけは……おまえだけは絶対に許せないぃぃぃっ!!」
千早は激高した声で叫びながら、崖を駆け下りた。
意を決した鈴音もまた、千早を死なせまいと、腰に差していた短刀を抜き、その後を追って飛び出した。
現代のさとるの胸に、焼け付くような怒りと絶望が濁流となって流れ込んできた。
(行っちゃだめだ、止まれ…止まってくれ…)
さとるはただ、激高する千早の激しい情動に引きずられ、己の身体が引き裂かれるような痛みとともに、凄惨な戦いを見つめるしかなかった。
「ほう。生き残りの小童か」
牛頭は動じず、ニヤリと残忍な笑みを浮かべた。
「殺せ」
「邪魔をするなぁぁぁ!!」
平地に降り立った千早は、行く手を阻む歩兵に向かって狂ったように刀を振るった。
父譲りの、無駄のない鋭い太刀筋。
ザシュ!!
油断していた手前の歩兵一人が、袈裟懸けに斬られて吹き飛ぶ。
「なっ、ガキだと思って油断したか!」
「囲め!殺せ!」
牛頭軍の精鋭たちが、怒号と共に戦斧や槍を構えて殺到する。
その数、およそ二十。対するは少年一人。
突き出される無数の槍。
千早はそれを紙一重でかわし、槍の柄を駆け上がって敵の懐に飛び込んだ。
「……『水月』!!」
敵の喉元を狙うが、厚い鎧に弾かれる。
「くっ……!」
弾かれた千早に、背後から別の兵が襲いかかる。
「がら空きだ!」
キィンッ!!
金属音が響き、敵の槍が弾かれた。
「……え?」
千早が振り返ると、そこには両手で短刀を握りしめ、震えながらも敵の攻撃を受け止めた鈴音の姿があった。
「鈴音!?」
「……こんなところで、死なせない!」
「小娘が!」
敵兵が鈴音を蹴り飛ばそうとする。
「させるか!」
千早が割り込み、その兵の足を斬りつける。
二人は背中合わせになった。
周囲は完全に敵兵に囲まれている。
刃の森だ。
「はぁ,はぁ……。鈴音、ごめん……」
千早が荒い息で謝る。
鈴音は、千早の背中の温もりを感じながら、ふわりと笑った。
「ううん。……一緒なら、怖くない」
「……鈴音」
二人は同時に踏み込んだ。
千早が剣で道を切り開き、鈴音がその隙を突いて敵を撹乱する。
「ええい、やりづらい奴らだ!」
輿の上で退屈そうに見ていた牛頭が、酒に酔い大きなあくびをしながら言った。
「……遊びは終わりだ。一斉にやれ」
その号令で、部隊の空気が凍りついた。
「……御意」
槍兵が、隙間なく並び、壁となって迫ってくる。
「くそっ……!」
豪腕の兵が振り下ろした戦斧の一撃は、受け流せず千早の刀を根元から叩き折った。
ガキンッ!
「あ……」
折れた刃が宙を舞う。
千早は丸腰になった。
「死ねぇ!」
迫り来る槍兵の隙間を、千早は執念だけで潜り抜け、牛頭の懐へと肉薄した。
「おおおおおっ!」
武器を失った千早は、巨躯の牛頭の太い腕を掴み、己の身体を独楽のように回転させた。
「水車!!」
柔道の上手投げのごとく、牛頭の体が宙に浮き上がり、鎧を鳴らしながら空中で大きく一回転する。
「なっ、牛頭様が投げられた!?」
周囲の兵たちが愕然とする。
「はああああっ!」
さらに、牛頭が地面に激突するその落下地点へ、背後から追従していた鈴音が一閃の如く飛び込んでいた。
手にした小剣を逆手に持ち、落下する後頭部をめがけて天へと突き立てる。
叩きつけられた衝撃で相手を確実に仕留める、千早と鈴音の息の合った得意技だった。
「ぬうおっ!?」
ガキンッ……
刃は、牛頭の頭まであと二寸、首元を覆う鎧に阻まれてしまった。
鈴音は、牛頭の化け物じみた威圧感を前に、恐怖でどうしても踏み込みきることができなかったのだ。
「ガキどもがぁぁぁぁっ!!」
地面を揺るがすような咆哮が響いた。
投げ飛ばされた屈辱、そして、あと一歩で命を奪われかけたというこの上ない侮辱が、牛頭を底なしの怒りへと変えた。
完全に酔いが醒め、顔を般若のように歪ませて立ち上がる。
「殺す……!なぶり殺しにしてくれるわぁぁぁ!!」
牛頭は巨大な戦斧を両手で狂ったように振りかぶった。
「いくぞぉぉ……『鬼殺しぃ』!!」
狂気と怒りに任せて振り下ろされる、破壊の一撃。
「くそぉぉぉ!」
千早は鈴音を背後に庇り、とっさに両腕を突き出してその一撃を受け止めようとした。
ドガァァァンッ!!
鈍い破壊音が響き渡る。
千早の生身で受けきれるはずがなかった。
千早の右手は、掌から、肉、骨、神経すべてが粉砕された。
「があああああっ!!」
千早が激痛に絶叫し、膝をつく。
鈴音は恐怖でただ震えていた。
牛頭は、狂気の目をギラつかせながら、冷酷に告げた。
「これ以上、遊んでいる暇はないぞ。楽にしてやる」
号令と共に、周囲を取り囲んでいた兵士たちが一斉に槍を構え、円陣を縮めた。
逃げ場のない、死の棘の檻。
四方八方、三百六十度からの同時刺突。
「鈴音!」
千早は砕けた身体を無理やり動かし、鈴音を抱え込んだ。
無数の鈍い音が連続して響く。
突き出された太い槍が、防御しようとした千早を容赦なく貫通した。
その勢いのまま、千早を貫き――震える鈴音へと到達した。
「が、はっ……!」
二人の体は、一瞬にして無数の槍で串刺しにされた。
「鈴、音……」
時間が止まったようだった。
二人は串刺しになったまま、折り重なるように崩れ落ちた。
「ふん。興ざめだ」
敵軍が去っていく足音だけが遠ざかる。
血の海の中、千早と鈴音は、まだ微かに息をしていた。
「……ごめん、ごめん。……約束、守れなかった……」
千早の目から光が消えかけている。
鈴音は、血に染まった手で、千早の手を握り返した。
「……いい……の。……千早と……一緒なら……」
「……ああ。……ずっと、一緒だ……」
二人は互いの体温を確かめ合うように、強く、強く手を握りしめた。
その手が離れることはなかった。
二人の瞳から光が消える。
晩夏の赤い夕日が、動かなくなった若い二人の亡骸を、優しく、そして残酷に照らしていた。
さとるとさつきは、息もできないほどの途方もない悲しみに襲われた。
若すぎる命が絶たれた無念が混じり合った、強烈な情動の奔流だった。
二人は、寄り添いながら、涙と嗚咽を堪えきれず、地面に崩れ落ちていた。
――ドクンッ!!
遠く離れた北の山中。
月夜見の胸に刻まれた「魂の契約」の痣が、焼けるような激痛を発した。
それは、絆の一部が、永遠に引きちぎられた痛み。
「……あ、あぁぁぁ……」
月夜見はその場に崩れ落ちた。
見なくても分かる。感じてしまった。
千早と鈴音の、あまりに幼く、無念な死を。
「……嘘だ……。嘘だと言ってくれ……!」
月夜見は、誰もいない薄暗い森の中で、天を仰ぎ、慟哭した。
剛毅、秀綱、慈恩。そして未来ある若者たちまで。
すべてを失った。
たった一人、残されてしまった。
まだ十六歳の少女にはあまりに重すぎる、国一つ分の死の重み。
「わらわのせいで……!皆が……!」
彼女は泥土を掴み、爪が剥がれるほど強く地面を掻きむしり、泣き叫んだ。
「この痛みは、どれほど辛くとも、どれほど永き時が過ぎようとも、決して忘れはせぬ……!この悲劇を、未来永劫、我が血に刻み込み、子孫に伝える……!」
月夜見の涙が、黒い土に吸い込まれていく。
その瞳には、絶望の淵から這い上がろうとする、鬼のような怨念と、聖女のような祈りが混在していた。
「だから……また巡り会うその日まで……私の中で、安らかに眠れ……!」
「そしていつか必ず……我らの手で……この呪縛を解き放つ……!」
月夜見の涙が、黒い土に吸い込まれていく。
落日は沈み、空には一番星が輝き始めていた。
彼女はもう、振り返らなかった。
――その背中には、散っていったすべての者たちの魂が乗っていた。




