第38章「偽史の守人」
三人が森の奥へと消えたのを確認すると、藤原は虚空を見上げ、短く告げた。
「……降りてこい、夜霧」
返事はない。
ただ、天井の岩肌から黒い染みが剥がれ落ちるように、一人の男が音もなく着地した。
夜霧衆頭領、夜霧。
彼は感情の読めない目で、月夜見たちが消えた闇を見つめていた。
「……気づいていたか」
「貴様の殺気は、昔から粘りつく」
夜霧はふと口元だけで笑い、ゆっくりと刀を抜いた。
「どけ。俺の狙いは月夜見の首だ」
「断る」
「ならば、斬るまで」
問答無用。
二つの影が同時に弾けた。
ガギィンッ!!
火花が闇を裂く。
刃が触れ合う距離で、藤原が低く問う。
「なぜ裏切った。宮嶋の影であることに、誇りを持っていたはずだ」
「誇り……か」
つばぜり合いの最中、夜霧が冷ややかに囁く。
「影に顔はない。名もない。……俺は飽いたのだ。泥を啜り、歴史の闇に埋もれるだけの生にな」
夜霧が力を込め、藤原を弾き飛ばす。
「玄馬様は約束した。月夜見の首と引き換えに、俺を『大名』に迎えると。……俺は影を捨て、表舞台に名を刻む」
「……名誉欲か」
『『生きた証』と言え」
藤原は刀を正眼に構え直し、哀れむようにかつての同胞を見た。
「光を求めた影は、消える定めだ」
「消えるのは貴様だ、藤原。……貴様ごときに、俺の渇望は止められん」
夜霧が腰を落とし、独特の構えをとる。
重心を極限まで低くし、全身をバネのように収縮させる構え。
「宮嶋流暗殺剣・奥義……『影牙』!」
刹那。
夜霧の姿が消えた。
音速を超えた刺突が、藤原の心臓へと一直線に迫る。
回避不能、一撃必殺の絶技。
ヒュンッ。
藤原は、最小限の動きで上体を逸らした。
夜霧の切っ先が、藤原の着物の襟をかすめ、虚空を突き抜ける。
「なっ……!?」
夜霧の体が流れる。
全速力で突っ込んだ勢いを殺せず、体勢が伸びきる。
防御も、回避もできない、完全な無防備。
「……未熟」
藤原が、夜霧の懐に滑り込む。
その構えは、今しがた夜霧が放ったものと、全く同じだった。
ズシュッ。
鈍い音が響き、夜霧の背中から、紅い刃が突き出した。
藤原の放った『影牙』が、隙だらけになった裏切り者の心臓を、正確に貫いていた。
「が……はっ……」
夜霧が膝から崩れ落ちる。
口から血の泡を吹きながら、彼は震える声で問うた。
「な、ぜだ……。なぜ、かわせた……完璧な、間合いだった、はず……」
藤原は静かに血振るいをして、刀を納めた。
「『影牙』は、全重心を一点に乗せる捨て身の技。……外せば二の太刀はない」
「ぐ、ぅ……」
「同じ修練を積んだ『影』を相手に、防御を捨てた博打を打つとは……。功名心に目が曇ったか」
藤原の冷徹な指摘に、夜霧の目が絶望に見開かれた。
自らの慢心が、死を招いたという事実。
「そん、な……。俺の、剣が……」
夜霧の手が虚空を掴む。
「俺は……光、の……中に……」
ドサッ。
栄光を夢見た影は、その望みを叶えることなく、冷たい岩肌の上で生涯を閉じた。
藤原は、物言わぬ骸に一瞥もくれず、背を向けた。
入り口からは、夜霧の部下たちの気配が迫っている。
「……さらばだ、源蔵」
藤原は煙玉を取り出し、足元に叩きつけた。
ボンッ!!
洞窟内に猛烈な白煙が充満し、なだれ込んできた敵兵たちの視界を奪う。
「どこへ消えた!?」
「くそっ、忍びか!」
その混乱に乗じ、藤原は音もなく岩の亀裂を抜け、木々の上へと姿を消していた。
彼が戦場から逃走したのには理由があった。
彼には、宮嶋慈恩から託された、最後の密命があったからだ。
(……慈恩様の言葉、忘れてはおりませぬ)
――『藤原よ。もし国が滅びたら、村上家は民を見捨てた卑劣な逃亡者、宮嶋と坂本は仲違いで自滅、寺下は裏切り者という「偽りの歴史」を流布しろ』
『な、なぜでございますか?そのような汚名、末代までの恥辱……!』
『よいか。敵が最も恐れているのは「再起」だ。「忠臣たちが命懸けで主君を逃がした」などという言い伝えが残れば、敵はそれがいつか反乱の火種になると危惧し、草の根を分けてでも月夜見様と民を根絶やしにするだろう』
慈恩は、悲しげに、しかし力強く藤原の肩を掴んだ。
『だからこそ、敵に「最高の勝利」を演出してやるのだ。「愚かな内輪揉めで自滅した」「主君は無様に逃げ惑い、崖から落ちて死んだ」――そんな、奴らにとって都合の良い「滑稽な結末」を与えてやれ』
『……あえて、愚か者を演じろと?』
『そうだ。そうすれば敵は、「これ以上、敗者のごみ掃除に兵を割く価値もない」と我らを嘲笑い、安心して勝利の美酒に酔いしれるだろう。奴らの「侮り」こそが、月夜見様と民が生き延びる唯一の隠れ蓑となるのだ』
友を、主君を、国を守るために。
彼らは、敵を欺くための「餌」として、あえて自ら一族の誇りを泥にまみれさせる道を選んだのだ。
森の梢の上から、燃え落ちる城を見下ろし、藤原は震える手で筆と巻物を取り出した。
彼はこれから、愛する仲間たちを「愚か者」として記さねばならない。
「……記録は改竄いたします。……あなた方の真実の愛は、この藤原が闇の中で守り抜きましょう。……いつか、光が差すその日まで」
藤原は涙を拭い、静かにその場から姿を消した。
――朝が来た。
何もかもが焼き尽くされた大地に、新しい太陽が昇る。
表の歴史には「愚かな滅亡」が刻まれ、裏の真実には「未来への希望」が託された。




