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第37章「魂の契約」

 一方、深い森の底。

 断崖からの落下を生き延びた月夜見は、瀕死の剛毅を抱え、森の奥深くにある岩壁の前にたどり着いた。

「……ここだ」

 一見すると、そこはただの苔むした岩肌にしか見えない。だが、剛毅が特定の岩のくぼみに手をかけ、隠された蔦を払うと、人が一人やっと通れるほどの亀裂が姿を現した。

 この「魂の泉」への入り口は、特殊な『幻惑の蔦』に覆われており、五歩も離れれば岩と同化して見える天然の迷彩が施されていた。

 さらに、崖上からの視線は木々に遮られ、崖下からは岩の陰になるという、完璧な死角に位置している。

 内部もまた、鍾乳洞特有の迷路となっており、正しい風の流れを知る者でなければ、泉にたどり着く前に迷い、深い縦穴へと落ちる構造になっていた。

「……ここなら、奴らは絶対に見つけられぬ」

 二人は暗い回廊を抜け、湿った冷気が漂う洞窟の奥へと進んだ。

 静寂。

 聞こえるのは、岩肌を伝う水滴の音と、二人の荒い呼吸音だけ。……はずだった。

 ピタリ、と剛毅が足を止めた。

 野生の勘が、異質な「風」を捉えたのだ。

「……姫様。お下がりください」

 剛毅が呻くように警告した、次の瞬間。

 闇の奥から、ゆらりと「影」が滲み出た。

 一つではない。五つ、六つ。――天霧の裏部隊「夜霧衆」であった。

 彼らは声を発しない。殺気すら漏らさない。

 能面のような無表情で、ただ報酬という目的のためだけに動く、生きた殺人機械。

(馬鹿な……。なぜこの場所が……!)

 剛毅が歯噛みする。

 夜霧衆たちは、問答無用で襲いかかってきた。

 ヒュッ、ヒュッ。

 無言のまま放たれた手裏剣が、正確に剛毅の急所を狙う。

 剛毅は月夜見を庇って前に出るが、満身創痍の体では反応が遅れる。

「ぐっ……!」

 肩と太腿に刃が突き刺さる。

 体勢を崩した剛毅の横をすり抜け、二人の影が月夜見へと躍りかかった。

 白刃が、月夜見の喉元へと迫る。

「姫様っ!!」

 剛毅が叫ぶが、間に合わない。

 死の刃が肌に触れようとした、その刹那。

 ガギィィンッ!!

 横合いから飛び出した二つの影が、夜霧衆の剣を弾き飛ばした。

「姫様には指一本触れさせぬ!」

「ここは私たちが!」

 洞窟の奥に潜んでいた、千早と鈴音である。

「千早!鈴音!」

 月夜見が声を上げるが、二人は振り返らない。

 千早の剣が唸り、鈴音の短刀が舞う。

 だが、夜霧衆は動じない。

 仲間が斬り結んでいても、他の者が無言で背後へ回り込み、機械的に包囲網を狭めていく。

 圧倒的な手数と連携。

 疲弊した千早と鈴音だけでは、防戦一方だった。

「くっ……!こいつら、強い……!」

「数が多すぎます……!」

 ジリジリと四人が一箇所に追い詰められる。

 夜霧衆の一人が、無機質な瞳で隙を見極め、決定的な一撃を放とうと踏み込んだ。

 ズシュッ。

 踏み込んだ夜霧衆の首が、不自然な角度で落ちた。

 鮮血が噴き出すより早く、背後の闇から現れた「別の影」が、その体を踏み台にして舞い降りた。

「……始末に時間がかかりました。申し訳ありませぬ」

 隠密頭・藤原と、その配下「透波」の面々である。

 藤原は全身に返り血を浴びていたが、それを拭いもせず、氷のような視線で残りの夜霧衆を見据えた。

「か、影!生きていたか!」

「影は死にませぬ」

 藤原の参戦により、形勢は逆転した。

 彼と透波たちが電光石火の早業で残りの夜霧衆を斬り伏せていく。

 断末魔すら上げず、敵は物言わぬ骸となって転がった。

 静寂が戻る。

 だが、四人の表情には安堵よりも恐怖が張り付いていた。

「な、なぜだ……」

 剛毅が脂汗を流しながら問う。

「この場所は、絶対の秘密だったはず。なぜ奴らが……」

「……源蔵(げんぞう)です」

 藤原が、忌々しげに吐き捨てた。

「……源蔵、だと?懐かしい名だな。確か、慈恩殿の影として動いていた男か」

 剛毅が言う。

「奴は元々、我らと同じ宮嶋家に仕えた同門の隠密でした。今は『源蔵』の名を捨て、『夜霧』として、かつての主に牙を剥いているのです……」

 四人は戦慄した。

「我らが何を隠し、どこを死守すべきか。奴はこの場所が持つ『重要性』を誰よりも熟知しています」

 あの執念深い男の影が、すでにここまで伸びている。

「本隊も嗅ぎつけています。ここが暴かれるのも時間の問題です」

 藤原が、入り口の方角を睨みながら告げる。

『姫様。……なすべきことを。私が、この通路を死守いたします!」

 月夜見はハッと顔を上げ、頷いた。

 もはや一刻の猶予もない。

 彼女は最奥の泉に向き直り、決意に満ちた瞳で仲間たちを見渡した。

「皆、聞け!このまま散り散りになり、魂まで離れ離れになることだけは許さぬ!」

 月夜見は厳かな声で続けた。


 ――「この泉に伝わる、決して消えぬ魂の楔を刻んだ古の儀式を行う。今ここで、我らの血で新たな契約を結ぶのだ、……『魂の契約』じゃ」


 その言葉の重みに、剛毅、千早、鈴音の表情が引き締まる。

 それは単なる伝説ではない。

 今、この絶望的な状況を覆すための、唯一の希望。

「我らの肉体は滅びようとも、想いは未来へ繋がねばならぬ。……今こそ、それを真実にする時だ」

「やりましょう!」

 千早と鈴音が迷いなく進み出る。

 剛毅も痛みを堪えて身を起こす。

 月夜見は自らの腕を短剣で傷つけ、血を泉に滴らせた。続いて三人も血を捧げる。

 四人の血が泉に溶け込み、幻想的な青白い光が洞窟を満たしていく。

 入り口では、藤原が次々と襲い来る敵兵を、無駄のない動きで斬り伏せながら、その光を背中で感じていた。

(……月夜見様。その想い、必ずや記録に残しましょう)

 月夜見は天を仰ぎ、魂の底から叫んだ。

「天に星、地に花、我らに魂の楔を!」

 その声は、時空を超えて響き渡る祝詞のように朗々と響いた。

「この痛みは、憎悪にあらず!この涙は、絶望にあらず!

 遠き子孫たちよ、我らの愛を受け継ぎ、再び絆を結べ!

 時を超え、平穏なる世にて笑い合うその日まで……

 この国の平和と繁栄を、未来永劫に渡り守り抜くことを、ここに誓う!!」

 カァァァァッ!!

 泉から放たれた光の柱が、四人を包み込んだ。

「うっ……!」

「あぁ……!」


 そして、さとる、さつき、たけし、めい、同時に胸を押さえてうずくまった。

 彼らはかつてないほどの熱を持って脈動し始めたのだ。

 さとるは感じた。胸の奥が焼けるように熱い。

 けれど、それは今まで感じていた「不吉な痛み」ではなかった。

(これは……祈りだ)

 数百年前に、死を前にした彼らが、必死に未来へ手を伸ばした「希望の熱」だ。

「聞こえる……」

「『また会おう』って……『愛してる』って……」

 さつきが涙を流しながら呟く。

 たけしは剛毅の痛みを、めいは月夜見の決意を、我がことのように感じていた。

「想いが……全部、流れ込んでくる……!」

 過去の彼らが刻んだ「魂の傷」が、今、現代の彼らの中で「約束」として結実しようとしていた。


 ――光が収束する。


「……契約は、成された」

 月夜見が呟いたのと同時に、剛毅の体がどうっと崩れ落ちた。

 ついに、限界が来たのだ。

「……姫様。……良い夢を、見させて、いただきまし、た……」

 剛毅は、安らかな笑顔で、静かに息を引き取った。

 その死顔は、主君と、友の子を守り抜いた満足感に満ちていた。

 月夜見は涙を拭い、入り口を見据えた。

 藤原の足元には敵の死体が積み上がっているが、敵の増援は際限なく押し寄せてくる。

 もはや一刻の猶予もなかった。

「千早殿!鈴音殿!殿をお連れして裏口からお逃げください」

 藤原が、敵を斬りながら、低く鋭い声で告げた。

「藤原!お主はどうする!」

 千早が問うが、藤原は振り返らなかった。

「……私は『影』です。やるべき仕事が残っておりますゆえ」

「行くぞ!千早、鈴音!」

「……っ、はい!」

 月夜見は、涙を堪えて走り出した。

 千早と鈴音も、藤原の背中に深く一礼し、月夜見の後を追って裏口へと駆けた。

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