第36章「最後の完了」
東の空が、うっすらと白み始める。
水鏡城から北に向かった険しい山岳地帯「断雲峠」へと、道なき山道を猛烈な勢いで疾走する一団があった。
宮嶋慈恩と、彼が率いる巨郭部隊の精鋭たちである。
慈恩の小脇には、黄金の織物で包まれた豪奢な箱、そして、どす黒い血に染まった丸い布包みがあった。
背後からは、地響きのような軍靴の音が迫る。天霧の兵――牛頭軍だ。
「逃がすな!月光の至宝、大将首には黄金以上の価値があるぞ!」
「八つ裂きにしろ!」
怒号と共に殺到する数百の兵。
だが、追われる宮嶋軍に焦りの色はなく、彼らは慈恩の背中だけを見つめ、無言のまま、あらかじめ定められた場所へと走っていた。
慈恩が音もなく右手を挙げ、振り下ろした。
その瞬間、切り立った崖の上に潜んでいた宮嶋兵たちが、一斉に支柱の縄を断ち切った。
ズゴゴゴゴッ……!
轟音と共に、巨大な岩石と土砂が雪崩のように降り注ぐ。
――「落岩の計」。
「ぐわぁぁっ!?」
「い、岩だ!潰されるぞ!」
先頭集団の数十人が、悲鳴を上げる間もなく土砂の下敷きになり、圧死した。
「怯むな!乗り越えろ!」
牛頭の怒号が響く。
死体を踏み越え、さらに追撃する。
慈恩は表情一つ変えず、次なる地点――断崖の中腹を這うように続く、険しい山道へと部隊を誘導した。
足を踏み外せば谷底へ真っ逆さまという、危険極まりない細道だ。
「……ここだ」
慈恩たちがその難所を渡りきった瞬間、殿の兵が無言で杭を引き抜いた。
パラパラ……ガガガッ!!
敵兵たちが細道に殺到し、その重みに耐えきれなくなった瞬間、足元の岩盤と木の足場がごっそりと崩れ落ちた。
――「桟道切り」
「う、うわぁぁっ!?」
「道が抜けたぞぉぉ!」
悲鳴と共に、数十人の兵士が、崩落する土砂と共に遥か下の谷底へと吸い込まれていく。
「おのれ慈恩んんっ!!小賢しい真似を!!」
牛頭が激昂し、道なき崖を強引によじ登って追ってくる。
そして、三叉路。
前方は吊り橋へ続く道。左右は鬱蒼とした獣道へ続く分岐点だ。
慈恩が足を止めず、ただ無言で指を鳴らした、その瞬間。
ザッ。
今まで一つの塊だった宮嶋兵が、まるで弾けたように急激に三方向へと散開したのだ。
兵たちは左右の獣道へと姿を消し、慈恩だけが馬を嘶かせながら目立つ動きで、中央の吊り橋への道を駆け出した。
「なっ……!?」
追ってきた牛頭軍が、その不可解な動きに足を止める。
「なんだ?罠か?どっちが本命だ!?」
あまりに唐突で統率の取れた散開。
敵兵たちに「戸惑い」が生まれた。
その隙を突くように、慈恩が中央の道から振り返り、挑発的に叫んだ。
「我こそは宮嶋慈恩!宝が欲しくばついて来い、鈍亀ども!」
慈恩はあえて目立つように、宝を掲げて見せた。
「あいつだ!真ん中だ!」
「だが、左右の連中も伏兵かもしれんぞ!」
部下たちの迷いを、牛頭は怒声でねじ伏せた。
「ええい、うるさい!全部だ!」
「えっ?」
「小細工など知ったことか!三方向とも攻め立てろ!根絶やしにしろおお!!」
牛頭の強引な命令により、牛頭軍は三手に分かれ、それぞれ慈恩と兵士たちを追った。
しかし、それこそが慈恩の狙いだった。
「ギャァァァァッ!!」
「落とし穴だ!串刺しだぞ!」
左右の獣道を追った部隊から、凄まじい悲鳴が上がる。
そこは、あらかじめ無数の竹槍と落とし穴を仕掛けられた「狩り場」だった。
誘導された兵たちは、待ち構えていた宮嶋兵の決死の反撃と罠によって、次々と仕留められていく。
「くそっ、左右は囮か!」
「なら、やはり真ん中が!」
牛頭率いる本隊は、罠のない中央の道を抜け、慈恩を追い詰めていく。
だが、それもまた、牛頭を誘い込むための、慈恩の狙いだった。
轟音を立てて流れる激流を見下ろす、一本の古びた吊り橋。
その向こうは、断崖絶壁に突き出した、逃げ場のない陸の孤島となっていた。
慈恩は橋を渡りきると、その孤島の岩場に仁王立ちし、追っ手を待ち構えた。
「はぁ、はぁ……。追いついたぞ、慈恩!」
牛頭が息を切らして橋のたもとに到着する。
しかし、彼はすぐに足を止めた。
あまりに露骨な行き止まり。罠の匂いがプンプンする。
「……待て」
牛頭が警戒し、部下たちを制止した。
それを見た慈恩は、岩場の上から鼻で笑った。
「どうした貴様。そこまで追い詰めておきながら、たった一人の手負い兵が怖いか?」
「なっ……」
「臆病風に吹かれたか。天霧の猛牛も、随分と可愛らしいことだ」
慈恩の嘲笑に、牛頭の額に青筋が浮かぶ。
「貴様……!言わせておけば!」
「牛頭様、罠かもしれません!」
部下が止めるが、牛頭は聞く耳を持たなかった。
「ええい、うるさい!奴は一人だ!ビビってねえで渡れぇぇっ!」
牛頭の怒声に押され、兵士たちが恐る恐る吊り橋を渡り始める。
一人、また一人。
慈恩は動かない。
ただ冷ややかな笑みを浮かべ、彼らが渡りきるのを待っていた。
やがて、牛頭を含めた三十名余りが、完全に孤島へと足を踏み入れた。
「……随分と減ったな」
慈恩がポツリと呟いた。
「減っただと?貴様を殺すには十分すぎるわ!」
牛頭が巨大な戦斧を構え、ジリジリと慈恩を包囲する。
「観念しろ。貴様は袋の鼠だ」
「袋の鼠……か。ふふ、違いねえ」
慈恩は視線を、彼らが渡ってきた吊り橋へと向けた。
「だが、袋に入ったのは……俺か?お前らか?」
「あ?」
対岸――敵兵たちが渡ってきた側の茂みから、一人の兵士が姿を現した。
死体を装って潜んでいた、宮嶋の兵だ。
彼は慈恩に向かって無言で敬礼すると、吊り橋の主・支柱に剣を振り下ろした。
ガギィィンッ!!
金属音が響き、支柱を固定していた金具が弾け飛んだ。
「なっ!?」
ブチブチブチッ!!
太い綱が弾け飛び、吊り橋が轟音と共に崩落した。
橋は激流に飲み込まれ、対岸への道は完全に閉ざされた。
「橋が……!?」
「退路がなくなったぞ!!」
敵兵たちが狼狽し、崖の縁に殺到する。
だが、下は渦巻く激流。
この狭い岩場は、完全に外界から隔離された「孤島」と化したのだ。
「貴様ぁっ!何のつもりだ!!」
牛頭が振り返り、慈恩を睨みつける。
「ここが貴様らの墓場だ」
慈恩は、この状況を楽しむように薄く笑った。
「ふざけるな!貴様を殺せば、宝は俺のものだ!生きて帰る方法などいくらでも……」
「宝?ああ、これのことか」
慈恩は脇に抱えていた布包みを掲げた。
「そうだ!それを寄越せ!」
「……欲しけりゃ拾いに行きな」
慈恩は腕を振りかぶり、力の限りその包みを背後の崖外へと放り投げた。
ヒュンッ。
偽物の「月光の至宝」は夕日に一瞬きらめき、吸い込まれるように激流の中へと消えていった。
「あ……」
牛頭の口が半開きになる。
地位も、名誉も、莫大な富も。すべてが水泡に帰した。
「あああぁぁぁぁっ!!俺の、俺の宝があぁぁぁっ!!」
牛頭が頭を抱え、絶叫する。
牛頭から、どす黒い殺気が噴き出した。
彼はゆっくりと顔を上げた。
牛頭は怒りで血管を激しく浮き上がらせながらも、声を震わせ、取り繕うような笑みを浮かべた。
「おい……待て、待て待て、宮嶋。まあ、落ち着け……。何もかも捨てることはねえ。お前だって、命は惜しいだろ?」
「その首さえあれば、頭領もお前を温かく迎えてくれる。地位も領地も思いのままだ。悪い話じゃねえ。なぁ?」
慈恩は、わずかに目を細め、だらりと肩の力を抜いてみせる。
「……地位も領地もか……」
「そうだっ!話せば分かる奴だと思ってたぞ。さあ、その首をこっちに渡せ。それで手打ちだ」
牛頭は、安堵の笑みを浮かべて手を伸ばした。
慈恩は、血染めの布包みをゆっくりと差し出し――そして、わざと手元を狂わせるように、床の岩場へと落とした。
ゴロ……
生々しい音を立てて転がった布包みが、衝撃で中身が転がり出る。
「なっ……!?」
牛頭の思考が停止した。
そこから現れたのは、月夜見ではなく、まったく見覚えのない泥にまみれた生首だった。
慈恩は、呆然と立ち尽くす牛頭を、憐れむような冷徹な目で見下ろした。
「貴様らの器では、月光国に勝つことは、万に一つも無い」
「て、てめえぇぇぇ!!!!いい加減にしろぉぉぉっ!!!!」
牛頭は理性を失い咆哮と共に、巨大な戦斧が猛然と振り下ろす。
(……秀綱。剛毅。……最期の舞だ。見ていてくれ)
ドガァァァン!!
牛頭の戦斧を、慈恩が受け止める。
凄まじい衝撃に、慈恩の膝が沈む。
「ぐぅっ…がはぁっ…!」
「どうしたぁぁ!貴様だけは楽には死なせねえぞっ!!」
牛頭の剛力が、慈恩を圧倒する。
二撃、三撃。
受けるたびに、慈恩の剣に亀裂が走り、腕の骨が悲鳴を上げて軋む。
慈恩は、技術と読みで致命傷だけは避けていたが、それも時間の問題だった。
「吹き飛べぇぇっ!!」
バキィィンッ!!
牛頭の渾身の横薙ぎが、ついに慈恩の剣を中央からへし折った。
剣の半分が宙を舞い、慈恩の体はボールのように弾き飛ばされ、岩壁に叩きつけられた。
「がはっ……!」
口から大量の血塊を吐き出す。
手には、折れて短くなった剣の柄だけが握られていた。
牛頭が慈恩の首を片手で掴み上げ、宙に浮かせた。
「ぐ、う……」
「まだ死なせねえぞ宮嶋ぁ!!俺様の怒りはこんなもんじゃねえ…」
牛頭が捕食者の笑みを浮かべ、慈恩の顔を覗き込むように顔を近づけた。
慈恩のだらりと下げていた右手が、けいれんするように微かに動く。
ジャキッ
それは、手首に巻いた革の手甲に隠された、小さな仕掛けを外す合図。
(……冥土の道連れだ)
微かな金属音と共に、慈恩の手のひらの底から、V字型に開いた「二本の鋭利な鉄針」が飛び出した。
人間の両眼の間隔に合わせて調整された、視界を奪うための特注の暗器。
慈恩は牛頭の両眼めがけて突き出した。
「なっ!?」
牛頭は野生の勘で、とっさに顔を背け、首をねじった。
ズプュッ!!
熟れた果実が潰れるような、湿った音が岩場に響いた。
鉄針は、牛頭の左の眼球を貫き、眼窩の奥底まで達していた。
(……片目か……しくじった……)
一瞬の静寂。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
地面に叩きつけられた慈恩は、血の泡を吹きながら、皮肉たっぷりに言い放った。
「両目とも潰して、暗闇の中で死なせてやるつもりだっ……」
――ズドンッ!!
牛頭は会話すら拒絶し、狂乱する勢いのまま振り下ろした巨大な刃は、慈恩の体を深々と貫いた。
さらに、戦斧の柄で胸骨を粉砕される。
「が……ぁ……」
慈恩の体から力が抜け、手から折れた剣が滑り落ち、カランと乾いた音を立てた。
慈恩は仰向けに倒れ、霞む目で空を見上げた。
(白い雲が流れている。ああ、今日はいい天気だ。あいつらと酒を飲むには、最高の……。
……月夜見様も……きっと逃げ切れる……)
牛頭は狂ったように慈恩を何度も踏みつけ、破壊した。
だが、慈恩はもう痛みを感じていなかった。
彼の唇が、微かに動く。
「……完了」
その瞳から光が消えた。
知将・宮嶋慈恩。
敵将・牛頭の猛攻を一身に受け、その命を燃やし尽くして散った。
孤島に残されたのは、片目を失い発狂する牛頭と行き場を失った敵兵たちの、やり場のない怒号だけだった。




