第35章「奈落の守護神」
城の前庭、一人の巨人が膝をついていた。寺下剛毅である。
数十人の重装歩兵に取り囲まれ、太い鉄鎖で四肢を幾重にも巻き付かれていた。
全身から血を流し、呼吸も荒い。
いかに金剛の肉体を持つ彼でも、動きを封じられ、意識が遠のきかけていた。
しかし、剛毅の脳裏に浮かんだのは、自分の命のことではなかった。
(姫は……姫はどこだ……?)
その時だった。
剛毅の視界の端に、異様な動きが映った。
城の裏手へ続く山道。
そこへ向けて、天霧軍の精鋭騎馬隊――およそ五十騎が、土煙を上げて殺到していたのだ。
「おい、崖の上だ!敵の総大将があそこにいるぞ!」
「逃がすな!騎馬隊、急行せよ!」
剛毅がカッと目を見開く。
その視線の先。
切り立った断崖の縁に、白銀の甲冑をまとった月夜見が、ポツンと一人で立っていた。
彼女はこちらを向いている。まるで、剛毅を待っているかのように。
(姫……!)
だが、あの騎馬隊が到着すれば、月夜見は蹂躙されてしまう。
距離はあるが、馬の足なら数分とかからない。
剛毅の脳裏に、最悪の結末がよぎる。
その瞬間、彼の心臓が早鐘を打ち、全身の血が沸騰した。
「ぬぅぅんっ!!」
剛毅が咆哮した。
全身の筋肉が異様に膨張し、血管が奔流のように浮き上がる。
バキンッ!!
鋼鉄の鎖が、飴細工のように弾け飛んだ。
「なっ……!?」
驚愕する周囲の敵兵の首を、剛毅は素手で掴み上げ、ボロ雑巾のように投げ捨てた。
そして、騎馬隊が向かう崖の方を指差して、獣のように吼えた。
「逃がすかぁぁ!!貴様、国を見捨てて逃げる気かぁ!!」
剛毅は地面を蹴り、弾丸のように走り出した。その速度は、傷ついた人間のそれではない。怒り狂った猛獣の突進だった。
「どけぇ!!あの女は俺が始末する!!」
その全身から放たれる狂気は、尋常ではなかった。
触れれば死ぬ。本能がそう告げるほどの、暴風のようなプレッシャー。
「ひっ……!」
敵兵たちは、そのあまりの迫力に思考が停止した。
止めようとすれば、殺される。
味方なのか、敵なのか、それすら判断する隙を与えない圧倒的な暴走。
誰も手が出せない。
ただ、モーゼの海割れのように、剛毅の進行方向に道が開いていく。
「お、おい!寺下が走っていくぞ……!」
「裏切り者の総大将を追っているのか……!?我らも続け!」
剛毅の凄まじい気迫に煽られ、敵兵たちは訳も分からぬまま、彼を先導役として後を追い始めた。
崖の縁。
月夜見は、迫りくる五十騎の騎馬隊を前に、静かに薙刀を構えた。
背後は断崖絶壁。逃げ場はない。
「覚悟しろ、月夜見!貴様の首で、この戦は終わりだ!」
先頭の騎兵が槍を突き出し、突撃してくる。
月夜見の瞳が鋭く光った。
白銀の刃が閃き、先頭の馬の脚を正確に薙ぎ払う。
馬がいななき、騎兵が投げ出されたところを、返す刀で斬り伏せる。
流れるような身のこなし。
一国の主たる者の武勇は伊達ではなかった。
「ええい、敵は一人だぞ!囲め!押し潰せ!」
次々と新手の騎兵が殺到し、月夜見を半円状に包囲していく。
キンッ!ガギィンッ!
四方八方から突き出される槍を、月夜見は舞うように受け流し続ける。
だが、その白銀の甲冑は徐々に鮮血で染まり、呼吸は荒くなっていく。
「くっ……!」
一瞬の隙を突かれ、強烈な突きが薙刀の柄を捉えた。
衝撃で手が痺れ、愛用の薙刀が弾き飛ばされる。
カラン、と乾いた音がして、武器が崖下へと落ちていった。
「丸腰だ!やれぇっ!!」
月夜見は短刀を抜こうとするが、間に合わない。
五人の騎兵が同時に槍を構え、彼女の華奢な体を串刺しにせんと迫る。
死の刃が、目前に迫ったその時――。
「どぉらぁぁぁっ!!」
ドゴォォォォン!!
天地を揺るがす轟音と共に、横合いから飛び出してきた巨大な影が、騎兵たちをまとめて吹き飛ばした。
「なっ、馬鹿な!?」
「ぐわぁぁっ!」
馬ごと宙を舞う敵兵たち。
土煙の中から現れたのは、全身から湯気を立ち昇らせた、鬼神の如き剛毅の姿だった。
「ご、剛毅……!?」
月夜見が信じられないものを見る目で呟く。
まさに絶体絶命の瞬間に現れた、最強の守護神。
だが、剛毅は荒い息を吐きながら、血走った目で月夜見の胸倉を荒々しく掴み上げた。
「つ、捕まえたぞぉっ!!」
剛毅はその勢いのまま、月夜見を崖の虚空へと押し出した。
残った敵騎馬隊の隊長が叫ぶ。
「待て剛毅!早まるな!」
「突き落とすな!首の確認ができん!」
剛毅は月夜見の耳元で、ニヤリと凶悪に笑ってみせた。
(姫……。ここから飛びますぞ)
(……正気か、剛毅!?)
月夜見の顔が驚愕に染まる。
この高さから飛び降りるなど、狂気の沙汰だ。
だが、剛毅の瞳には一点の曇りもなかった。
剛毅は月夜見を抱き寄せると、敵兵に向かって絶叫した。
「裏切り者め……!見損なったぞ月夜見ぃぃっ!!」
剛毅はためらうことなく、自ら崖の縁を強く蹴った。
「なっ!?」
「馬鹿野郎!!」
敵兵たちが手を伸ばすが、指先は虚空を掴むだけだった。
二人の体は、暗闇の奈落へと躍り出た。
重力が消える浮遊感。ヒュオォォォという風切り音が耳を打つ。
華奢な指先が剛毅の鎧に食い込むほど強く握りしめられ、恐怖で全身に力が入った。
「……剛毅ぃぃぃ!!」
その時、強い力が彼女を引き寄せた。
剛毅が空中で体を強引に捻り、自分の背中が下になるように――月夜見を自分の分厚い胸の上に乗せるようにして、体勢を反転させたのだ。
「……わしと、この木々が……クッションになりまする!」
死を覚悟した剛毅。
だが、神速で反応した「影たち」がいた。
崖下の闇、鬱蒼と茂る樹冠の間を、ムササビのように滑空する数人の黒装束。
「――死なせるなっ!!」
藤原の鋭い号令が、風切り音を裂いた。
彼らは落下する二人の軌道を瞬時に予測し、谷底の木々へ向かって一斉に「鉤縄」を放った。
ヒュッ!ヒュッ!ガギンッ!
鋭い鉤爪が巨木の幹に食い込む。
数人の忍びが対角線上の木へと飛び移り、空中で交差させた極太の麻縄を、ギリリッと全力で引き絞る。
即興で作られた、三層、四層の「縄の蜘蛛の巣」。
間に合うか、強度が持つかなど考えている暇はない。
彼らは掌の皮が焦げるのも構わず、全体重をかけて縄を支えた。
バツンッ!!バツンッ!!
猛スピードで落下してきた剛毅の背中が、第一の縄を打ち砕く。
縄は弾け飛んだが、その衝撃で落下の勢いが確実に削がれる。
続いて第二、第三の縄が、二人の体を受け止めては、忍びたちの腕ごと持っていかんばかりに引っ張られ、千切れていく。
「ぐ、おぉぉぉぉッ!!」
樹上の藤原たちが、歯を食いしばって衝撃に耐える。
(……剛毅殿、これ以上は持たん!あとは頼む……!)
バキバキバキッ!!
太い枝がへし折れる音が、断末魔のように連続して響いた。
そして最後に、ズドンッという重く、鈍い衝撃音が谷底を揺らした。
崖の上。
取り残された敵兵たちは、暗闇の底を覗き込み、狂乱状態に陥っていた。
「おい!落ちたぞ!」
「首だ!首を取らねば手柄にならんぞ!」
「追え!早く降りろ!」
功名心に駆られた兵士たちが、我先にと崖下へ向かおうとする。
だが、そこには道などない。
「ど、どこから降りるんだ!?」
「道がないぞ!こっちは断崖だ!」
「あっちか?いや、藪で進めん!」
手柄欲しさに目がくらんだ兵士たちは、右往左往し、同士討ち寸前で怒鳴り合いながらバラバラと散っていく。
組織的な追跡など不可能な状態だった。
一方、深い谷底。
折れた枝と落ち葉の山の上に、剛毅は仰向けに倒れていた。
その胸の上で、月夜見が恐る恐る顔を上げる。
「……剛毅?生きているか?」
「……ぐ、うぅ……」
剛毅の口から、苦悶の呻きが漏れた。
全身の骨が悲鳴を上げている。普通なら即死の高さだ。
しかし、彼の鋼のような肉体と、何重にも重なった枝葉が、奇跡的に衝撃を緩和していた。
「剛毅、剛毅っ!」
月夜見が泣きそうな声で呼びかける。
剛毅はゆっくりと目を開け、月夜見に怪我がないことを確認すると、震える手で彼女の頬に触れた。
「……姫様……。ご無事、ですな……」
「ああ、私は無傷だ。そなたが守ってくれたおかげで……!」
剛毅は、深く、長い安堵のため息を漏らし、周囲に散らばる寸断された麻縄を見つめ、深く、長い安堵のため息を漏らした。
「……この身だけではありません。……友の手の温もりを感じました」
剛毅は激痛に顔を歪めながらも、どこか誇らしげにニカッと笑った。
「奴らが迂回してここまで降りてくるには、土地勘があっても半刻はかかりましょう。まして、日も暮れる……。すぐには来れますまい」
剛毅は、肺に残った空気をすべて吐き出すように、大きく一息つき、彼の中で張り詰めていた太い糸が、プツンと切れた。
「……よかった……。本当によかった……」
鬼神の如き強さを誇った男の目から、静かに、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは、国を失った悲しみ、仲間たちを置いてきた無念、そして何より、命に代えても守りたかった主君が生きているという安堵が混ざり合った、武人の静かな涙だった。
剛毅は震える腕で、月夜見をそっと抱きしめた。
「……ふぅ。……少しだけ、このまま……休ませてくだされ……」
月夜見は、胸板の上で静かに涙を流す巨人の頭を、優しく撫でた。
谷底の闇の中で、二人の安らかな呼吸音だけが、悲しく、温かく響いていた。
―その様子を、遠い木の梢から、赤く光る隻眼の影が、じっと見下ろしていた。




