第34章「水鏡の残光」
城外での秀綱と慈恩の命懸けの大芝居――その作戦と呼吸を合わせるように、水鏡城の内部を疾走する影があった。
水鏡隊である。
正門が突破された今、天霧の兵で埋め尽くされているはずの回廊には、不気味なほどの静寂と奇妙な空白が広がっていた。
彼らが遺してくれた、最初で最後の好機。
一刻の猶予も無駄にはできなかった。
千早は、隣を走る鈴音の肩を、壊れ物を守るように強く抱きすくめていた。
(走れ……走るんだ、鈴音……!)
鈴音の瞳からは生気が失われ、ただ前方の闇を虚ろに見つめている。
足元はもつれ、今にも崩れ落ちそうなその身体を、千早は自らの身体で必死に支え、前へと進ませていた。
二人の時間稼ぎのおかげで、水鏡隊は天霧の兵と遭遇することなく、最奥の間へと辿り着いた。
全員、無傷。だが、一息つく隙はなかった。
「月夜見様!」
静流が激しく障子を開け放つ。
その目に飛び込んできたのは、部屋の格天井までを赤く染め上げる外の煙と、傾く陽光の照り返し。
そのただ中で月夜見は、すでに床の上へ端座し、上衣を肌脱ぎにしていた。
膝元には純白の木綿布。
両手で逆手に握られた短刀の切っ先は、自らの脇腹へと今まさに突き立てられんとしている。
自決の直前だった。
静流が滑り込むように間へと踏み込み、膝をついた。
不敬を顧みる余裕すらなく、短刀を握る主の震える両手を、自らの手で固く包み込んで止める。
「……静流か」
月夜見は荒い息を吐きながら、じっと静流を見つめた。
その瞳の奥にある気高き光は、死の恐怖に揺らいではいなかった。
「この城もまもなく灰となる。余がここで腹を召すことこそが、最期の務めだ。手を離せ、静流」
「まだです」
静流は低く強靭な声で遮り、真っ直ぐに主を見据えた。
「月光国の主としての重責、重々承知しております。なれど、月夜見様は水鏡の正統なる血が流れるお方。何に代えても、ここで絶やすわけにはまいりません。……お逃げください!」
言うや否や、静流は短刀を優しく主の手から奪い取ると、床脇にある「違い棚」の下へと淀みない動作で手を滑り込ませた。
板の裏にある、目視では決して分からないほどの小さな木の節を、特定の順序と正確な強さで押し込んでいく。
カチリ、と微かな解錠音が響いた。
次の瞬間、頑丈に見えた塗り壁の一部が音もなく回転し、大人が一人、ようやく通れるほどの狭い暗黒の空洞が口を開けた。
城外の安全な山裾へと直通する、秘匿されてきた隠し通路だった。
月夜見は開かれた暗闇を見つめ、それから静流の顔、そしてその背後で煤にまみれて立つ千早や鈴音の姿を見渡した。
国主としての万感を抱きながらも、静流の揺るぎない眼差しにすべてを託し、一度だけ強く頷いた。
月夜見は、振り返ることなく隠し扉の闇へと消えていった。
回転壁が再び閉まり、完全に元の壁へと戻るのを確認すると、静流は違い棚の裏へと再び手を滑り込ませた。
そして、仕掛けの鍵となっていた木製の小さな歯車を、強靭な指の力で一気に引き抜く。
みしり、と木が割れる音が響き、内部の細工が破壊された。
これで追手がこの部屋に踏み込もうとも、隠し通路が開かれることはない。
静流は弾かれたように踵を返した。
「我らも逃げるぞ!全員、私に続けっ!」
その指示と同時に、水鏡隊の生き残りたちは天守の最上階である五階を飛び出し、下層を目指して駆け出した。
だが、真の試練はここからだった。
城内は、国主の身柄を血眼になって追い求める天霧の包囲網によって、逃げ場のない袋小路へと急速に追い詰められつつあった。
五階の回廊を抜けて中央階段へ差し掛かったその時、下から凄まじい怒号が這い上がってきた。
「この上だ!国主を探せ、上がれぇっ!」
夕闇が迫る薄暗い階段を、松明の明かりを揺らしながら埋め尽くして上ってくるのは、天霧の兵たちだった。
「引き返せ!逆の回り舞台から降りるぞ!」
千早が叫び、部隊の最後尾を反転させようとした、まさにその瞬間。
「――ほう、こんなところにまだ鼠がおったか」
逆側の高欄から、甲冑の擦れる冷たい音と共に嘲笑が響いた。
城の外壁や屋根を伝って回り込んできた天霧の兵が、すでに高欄を乗り越え、背後の退路を遮断していた。
細い一本の木造回廊。
前後を天霧の刃で挟まれ、左右は壁と夕空。
一瞬の停滞すら全滅を意味する夾撃。
だが、静流の思考は止まっていなかった。
「足元へ集え!」
静流は鋭く叫ぶと同時に、軟剣『水紋』の柄を逆手に握り直した。
水鏡流の勁力を両足へと集中させ、床板の継ぎ目へ向かって、目にも留まらぬ速さで刃を円状に突き立て、切り裂く。
「踏み抜くぞ、跳べっ!」
静流の足撃が、切り裂かれた床板を真っ二つに粉砕した。
激しい破砕音が轟き、床に巨大な穴が口を開ける。
天霧の両軍が刃を突き出して殺到してきたその瞬間、水鏡隊の身体は、五階の床板を突き破って真下の四階へと垂直に落下していった。
激しい着地音が響く。
飛び降りた先は「御納戸」と呼ばれる部屋。
ここには王家の儀礼用装束や、他国から献上された長大な反物が幾重にも山積みにされた、巨大な長持が並ぶ薄暗い保管庫となっていた。
しかし、息を整える時間すら与えられない。
五階の穴から敵の覗き込む気配がし、同時に四階の扉の向こうからも、侵入してきた敵の足音が近づいてくる。
階段を使った通常の移動はすべて先回りされていた。
静流は部屋の奥に鎮座する、ひときわ巨大な総桐の長持へ視線を走らせた。
「長持をひっくり返せ!中の布を出せ!」
千早と隊員たちが言われるがままに長持を転がすと、中から巻物のように固く巻かれた、儀礼用の極厚の白布――数十間に及ぶ長大な反物が、床へとなだれ出た。
静流はその端を掴み、四階の窓を支える強固な太梁へと、澱みない手際で結び止めた。
「窓を破れ!」
千早の蹴りが窓格子を粉砕し、茜色の虚空が広がる。
静流は残りの反物の塊を、その窓の外へと全力で放り投げた。
夕風を孕んだ純白の長布は、生き物のように城の外壁を走るように広がり、二階の壁際から外へと突き出た「張出舞台」の板敷きへと向かって、垂直に垂れ下がる一本の命綱となった。
「布を伝って滑り降りろ!二階の舞台まで飛び込むのだ!」
静流の差図の元、千早が動かない鈴音を片腕でしっかりと抱き抱え、白布を掴んで黄昏の空へと身を投げ出した。
摩擦で手のひらが焼けるような痛みに耐えながら、水鏡隊の生き残りたちは外壁を恐るべき速度で滑降していく。
四階の御納戸の扉が破られ、天霧の兵が乱入してきたまさにその瞬間、最後尾の静流は自らの軟剣で梁の布を断ち切りながら、自らも空へと躍り出た。
凄まじい速度で下降し、千早たちは二階の張出舞台へと着地を決めた。
静流の機転により、水鏡隊は敵の予測を上回る速度で、堀に最も近い二階の大広間へと、脱出の足を進めていた。
そんな彼らが着地した張出舞台から見える城内部は、天霧の兵たちが埋め尽くし、制圧していた。
息つく間もなく、水鏡隊に気づいた天霧兵が猛然と押しつぶしに前進してきた。
重なり合う盾の隙間から突き出される長槍が、水鏡流の歩法を受け付けず、追い詰めていく。
「突っ込むな、千早!鈴音を連れて下がれ!」
「ですがっ!包囲網が――っ!」
静流の背中から、有無を言わせぬ凄まじい覇気が迸る。
静流は、千早と鈴音、数名の隊員たちの背後にある、城外へと繋がる巨大な格子窓を視界に捉えていた。
その窓の真下には、城を囲む、水鏡城の堀がある。
「その窓を蹴破って飛び込め!!」
静流はそう叫ぶと、自らあえて天霧の鉄壁の中央へと猛然と突撃し、敵の進軍をその細い身体一つで受け止めるように立ち塞がった。
その長身からは、ここまでの死闘で負った大量の鮮血が激しく床へと流れ落ちている。
もはや、自らに助かる道など万に一つもないことを、他ならぬ彼自身が最も深く理解していた。
静流は、格子窓の前で立ち尽くす千早たちの方を、最後に一度だけ振り返った。
「水鏡隊、解散せよっ!!」
静流の声が、本丸を揺らす怒号を引き裂いて、広間全体に響き渡った。
それは、部隊としての終わりの宣言。
数多の槍が、静流の腹、胸、太腿を容赦なく貫通した。
生々しい肉の裂ける音が響き渡る。
だが、静流は倒れなかった。
血を吐きながらも、その唇に凄絶な不敵の笑みさえ浮かべてみせた。
「ぐ…ぬぅ…『止水』!!」
静流が吼える。
全身の筋肉を限界を超えて硬直させ、自らの肉体を貫いた敵の武器を、体内で強固に締め付け、敵兵ごとその場に固定した。
敵兵たちが慌てて槍を引き抜こうとするが、溶接されたかのようにビクともしない。
静流は大量の鮮血を口から噴き出しながら、両手の軟剣でさらに左右の敵の身体を絡め取り、自らを巨大な楔として、天霧の進軍をその場に縫い止めた。
「隊長ぉぉぉっ!!」
千早の絶叫が木霊する。
だが、ここで戻れば、師が命を捨てて作った一瞬の猶予が無駄になる。
千早は溢れ出る涙を袖で振り払い、虚空を見つめたまま動かない鈴音を無理やり担ぎ上げた。
「走るぞ!鈴音!」
「……ぁ……隊長……父様……い、いやぁ……!」
鈴音の口から、絶望的な呜咽が漏れる。
父に続き、第二の父とも言える大切な師までもが、自らの命を贄として差し出していく。
千早は狂ったように叫びながら、生き残った数名の隊員たちと共に、二階の格子窓を渾身の力で蹴破り、夕暮れの虚空へと身を投げ出した。
ドボォン!!
激しい水音と共に、刺すように冷たい堀の水が彼らの身体を包み込んだ。
頭の上では、水鏡の城を落とさんとする天霧軍の松明の明かりが、夕闇の迫る空を不気味に照らし出している。
水面から顔を出した千早が見たのは、激しい戦火の窓際で、数多の槍に貫かれたまま、最期まで敵を食い止め続けていた偉大な師の影法師だった。
静流の気配が、フッと消えた。
水鏡隊という、美しく気高かった器は、ここに砕け散った。
残されたのは、水の中を震えながら逃げ惑う、傷だらけの少年少女たちだけだった。




