第33章「最後の大芝居」
煙を上げて降り注ぐ正門の残骸を踏みつぶし、光を吸い込むような漆黒の津波が一斉に城内へと流れ込んでいく。
なだれ込む天霧の精鋭、葛城軍と牛頭軍に対し、月光国の残存兵力は防衛線を死守すべく激突した。
水鏡城の内部は、いくつもの木造の回廊と、両軍が入り乱れて刃を交える広めの前庭へと続いていた。
その奥の最も高い場所には、この戦の最大の防衛対象が座す本丸が、厳かにそびえ立っていた。
広めの前庭では、月光国の中心たる慈恩率いる巨郭部隊と黒鉄兵が、盾を隙間なく並べて天霧の猛攻を受け止めていた。
しかし、天霧の先鋒たる葛城軍と牛頭軍の苛烈な攻め立てに対し、大黒柱である剛毅が搦め手で捕らえられ、不在となった戦線は、押し寄せる敵を押し返すほどの戦力は残っていない。
次々と押し寄せる天霧の鉄の波に押され、月光国軍の防陣はジリジリと削られ、奥へ奥へと押されていた。
前線で軍を指揮する牛頭の凶面を睨みつけ、慈恩は奥歯を噛み締めた。
(あやつめ……)
過去の忌まわしい戦禍で辛酸をなめさせられた宿敵への怒りが胸を灼くが、今の戦力差では決定打に欠けている。
もはや、まっとうな防衛策では一刻の猶予も稼げない。
飛び散る火花と肉を裂く音の嵐の中で、慈恩は冷徹に戦況を睨みつけながらも、前線を部下に預け、この絶望的な乱戦の中で必死に秀綱の姿を探し求めた。
剛毅が捕らえられ、前線が押し込まれつつある今、共にこの局面を打開すべき友の安否を何としても確かめなければならなかった。
炎と煙が渦巻く回廊の陰へと視線を走らせたその時、泥と血の海にまみれて壁に寄りかかる、見慣れた影が視界に入った。
「……がはっ、げほっ……クソが……」
秀綱だった。
『土蜘蛛』の猛毒を吸い込み、全身に無数の矢を突き立てられた秀綱は、脇腹の深手を押さえながら、荒い呼吸を繰り返していた。
肉体の限界をとうに超え、生きていることさえ奇跡といえる状態でありながらも、その瞳の奥に灯る光だけは、まだ衰えていなかった。
慈恩は秀綱の元へ駆け寄り、その凄絶な傷の深さに息を呑んだ。
「……もはや戦えん」
慈恩は低く鋭い声で呟き、友の目を真っ直ぐに見つめた。
「秀綱。馬でちょっくら走れるか」
「当たり前だ」
秀綱は血に染まった歯を剥き出しにして、不敵に笑った。
その不屈の友へ、慈恩はさらに言葉を重ねる。
「よし、我らで一人でも多くの敵を外へおびき出す。そのままお主は身を隠すのだ」
「話は分かった、やろう」
秀綱が力強く応じるのを見届け、慈恩は厳しい表情のまま頷いた。
「わしが少しでも長く敵の目を引きつける。行け、秀綱……」
「応よ……」
秀綱は血を吐きながらも、不敵に嗤い、城の奥深く、宝物庫がある暗い回廊へと姿を消した。
ここから、慈恩にとっての孤独で過酷な時間稼ぎが始まった。
前庭に戻った慈恩は、壊滅寸前の戦線を必死に鼓舞した。
「巨郭部隊、盾を崩すな!黒鉄兵、槍を引くな!まだだ、まだ耐えろ!」
時間は無慈悲に過ぎていく。
一分が一時間にも感じられる絶望的な戦況の中、天霧軍の凄まじい暴力は、容赦なく月光国の兵たちをすり潰していった。
前庭の石畳は、流された血によって赤黒い池のようになり、焼け落ちた梁が次々と大きな音を立てて崩落していく。
「大将!もう持ちません!」
「黒鉄兵、右翼が突破されました!」
悲鳴のような報告が次々と飛び込んでくる。
慈恩の全身からも汗と血が噴き出し、息が上がる。
(もう持たん、秀綱……!)
胸の中で焦燥感が爆発しそうになった、まさにその瞬間だった。
「てめぇらぁ!滅びゆく国など知ったことか!」
前庭の斜め後方、本丸とは全く異なる方向の回廊から、戦場すべてを圧するほどの凄まじい大音声と、狂った獣の血の咆哮響き渡った。
天霧の兵たちが、一斉にその方向を振り返る。
そこには、黄金の織物で包まれた豪奢な箱と、どす黒い血に染まった丸い布包みを両手にしっかりと抱えた、血まみれの秀綱が立っていた。
「この国の至宝、すべて俺様が冥土の土産に持ってってやらぁぁ!!」
秀綱はそう息を弾ませながら、宝の包みを抱えたまま、城外へと通じる回廊へと猛然と走り出した。
それを見た天霧の先鋒兵たちが、一瞬にして色めき立った。
「おい、見ろ!坂本の大将が何か持っているぞ!」
「あの黄金の包み……あれが月光国の至宝か!?」
「待て、あの丸い布包みはなんだ……まさか、もう一方の大将の首か!?身内で首の獲り合いをしたのか!?」
敵兵たちが激しい動揺の声を上げる中、前線で自軍を指揮していた牛頭は、秀綱が抱えるその黄金の箱を凝視し、ぎょろりとした眼を驚愕に剥いた。
月光国の至宝――それは単なる金銀財宝の類ではない。かつて天下の覇権を巡る大戦の折、一国を文字通り買い取るに足る価値があると謳われ、その手にした者が次の時代の覇王になると伝説に残るほどの、神代の秘宝であった。今回の水鏡城攻めにおいて、天霧の総大将である玄馬が何よりも執着し、血眼になって奪取を厳命していたその絶対的な価値を、慈恩も秀綱も当然のごとく知悉していた。
(おいおい、冗談じゃねえぞ……!あの大将首も宝も、両方ともこのまま目の前で失くしちまうようなことになったら、玄馬様からの評価は地獄の底まで落ちるぞ……!)
前線で吠える牛頭だけでなく、後方で冷徹に戦況を睨んでいた主水までもが、この想定外の事態に激しい焦燥に駆られていた。
天霧軍が総出で追撃に移ろうとした、その瞬間だった。
慈恩は刀を抜き、逃げ走る秀綱の行く手を阻むように猛然と前方に回り込んで立ち塞がった。
「坂本ぉ!国を見捨てて宝を持ち逃げするか!貴様だけは絶対に逃がさん!」
裂けんばかりの声で吼えながら、慈恩は正面から秀綱に飛びかかった。
激しい金属音が響き、二人の巨躯が激突する。
慈恩は敵の死角を利用して秀綱の懐へ肉薄し、その脇へと刀の切っ先を寸止めで滑り込ませた。
周囲の兵の目には、刃が腹の奥深くへ突き刺さったようにしか見えない。
慈恩は秀綱の耳元で、敵には絶対に聞こえないほどの蚊の鳴くような声で必死に耳打ちした。
「もう良い、早く行け。」
だが、秀綱は血に染まった唇を吊り上げ、ニヤリと笑った。
かつて、誰もいない夜の荒野で、互いの野心を語り合って笑った時と同じ、無邪気で、しかし絶対の覚悟に満ちた笑顔だった。
「……浅いわ、友よ」
秀綱の掠れた声が、慈恩の鼓膜を揺らした。
「これじゃ敵を騙せねえ……」
「なっ──」
慈恩が息を呑んだ瞬間、秀綱の両手が高速で動いた。
瀕死のはずの男のどこにそんな力が残っているのか、秀綱の手は万力のような怪力で、慈恩が握る刀の刀身を素手で鷲掴みにした。
掌の肉が裂け、指の骨が軋む嫌な音が響く。
そして秀綱は、驚愕に目を見開く慈恩の腕力を完全に力ずくで抑え込み、自らの意思で、その鋭利な刃を己の腹の奥深くへと、強引に突き立てたのだ。
ズブブブブッ……!!
「やめ、う……うおぉぉぉっ!!」
慈恩は絶叫した。
渾身の力で刀を引き抜こうとしたが、秀綱の肉体と両手は、強固な鉄の檻のように刃を固定して離さない。
肉を断ち、内臓を貫き、骨を削る生々しい感触が、柄を通して慈恩の両手に狂おしいほど焼き付いていく。
大量の鮮血が傷口から激しく噴き出し、慈恩の顔と衣服を真っ赤に染め上げた。
膝を屈しかける秀綱は、溢れ出る血を口から垂れ流しながらも、満足げに慈恩の胸ぐらを引き寄せた。
その瞳には、最期の瞬間まで失われることのない、底知れない男気が輝いていた。
「お前は……最後まで『武人』でいろ、ここは退き受けたぞ」
それが、この稀代の無頼漢の最期の言葉だった。
秀綱はニヤリと笑ったまま、大太刀を杖代わりにし、床の上にドサリと崩れ落ちた。
ただ、薄れゆく意識の淵で、遠い空の下にいるはずの愛娘――鈴音の満面の笑みを思い浮かべながら。
(──鈴音)
ふっ、と糸が切れたように、秀綱の首ががくりと落ちた。
その死に顔は、誰よりも国と友を愛し、その生涯を演じきった、誇り高き男の顔だった。
慈恩は、自らの手で親友を貫いた剣を握りしめ、立ち尽くしていた。
足元には、事切れた秀綱が、全てをやり遂げた男の顔で転がっている。
その手はまだ、慈恩の剣を離そうとしていなかった。
「秀綱──!!この、大馬鹿野郎がぁぁっ!!」
慈恩の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
その慟哭は、友を失った悲しみであると同時に、完璧な憎悪の嵐を完成させるための、この世で最も痛烈な叫び声となった。
敵将同士のあまりにも壮絶な、そして醜悪な殺し合いを目撃した天霧軍の兵たちの意識を釘付けにしていた。
そして、主君のその最期の壮絶なメッセージを、血の涙を流しながら受け取った赤鬼隊の生き残りたちが、一斉に咆哮を上げた。
「おのれ宮嶋ぁぁっ!!頭を殺しやがったな!ゆるさねえぞぉぉ!!」
一人の赤鬼兵が、宮嶋の兵に向かって突っ込んでいく。
「ああ、殺してやる!赤鬼の裏切り者どもめ、全員地獄へ道連れだ!」
宮嶋の兵たちもまた、慈恩の意図を察し、狂気に満ちた叫びで応じた。
彼らは互いに斬り合うふりをしながら,自ら相手の槍に身を投げ出し、あるいは互いの腹に剣を突き刺し合いながら、次々と床の中に倒れていった。
彼らもまた、自分たちがここで命を賭して本物の狂気を見せなければ、秀綱が自らの腹を貫いてまで作った大芝居が無駄になることを、その野生の勘で悟っていたのだ。
水鏡城の回廊は、坂本軍と宮嶋軍が命を賭して作り出した、この世の終わりかと思われるほどの混沌の渦に包まれた。
「な、なんだこいつらは……!」
「国が滅ぶというのに、味方同士で狂って殺し合っているぞ!」
押し寄せていた天霧軍の先鋒は、あまりの異常事態と、死をも恐れぬ狂乱の地獄絵図に圧倒され、進軍の足が止まった。
天霧軍の包囲網に、空白が生まれたのだ。
慈恩は、宝の包みとその手にある血に染まった刀を固く握りしめ、涙を拭うことなく、狂ったように叫んだ。
「赤鬼どもめ、果てるがいい!月光国なき今、私はこの至宝と共に、他国で新たなる覇業を成し遂げる!」
そして彼は、あえて秀綱の亡骸をまたぎ、踏み越えた。
天霧軍の矛先は、一斉に慈恩へと向いた。
慈恩は天霧軍を嘲笑うかのように反転し、あえて目立つルートを選んで、城外へと猛然と走り出した。




