第32章「紫煙の陥落」
遠ざかる意識の底。
心の中で鈴音に詫びを呟いた瞬間、秀綱の冷え切った理性が猛烈な拒絶反応を起こした。
綺麗に死のうとした己の脳髄へ、自ら強烈な罵声を浴びせる。
怒りの矛先は天霧の軍勢ではなく、感傷に負けて大人しく眠ろうとした自分自身だった。
(たりねえよ。ろくでなしどもに大口を叩いた男が、我が子に面白い世界の一つも見せないまま、何が満足だ。何が終わりだ)
死の闇の心地よさなど、この男の底なしの渇きを満たすにはあまりに退屈すぎた。
綺麗ごとの愛でも怒りでもない。
感傷への猛烈な自己嫌悪。
灰になりかけていた肉体を内側から力ずくで強制起動させた。
停止しかけていた心臓が、ドクンと、戦場すべてに響き渡るかのような不気味な脈動を再開した。
全身の血管に沸騰した血が巡り、漆黒の闇が内側から爆散する。
プハッ……がはっ!
秀綱は泥水を喰らいながら、勢いよく跳ね起きた。
喉を引き裂きながら、戦場すべてを圧する狂った獣の咆咆を叩きつける。
「──赤鬼ぃぃぃぃぃっ!!宴の、時間だぁぁぁぁっ!!」
その魂の叫びが、戦場に転がる「屍」たちの眠れる情念を叩き起こした。
強烈な情動の伝染。
「?……へっ、ひでえ声だな、頭ぁ……」
「へへ、こいつらも地獄に連れてってやらぁ……!」
物言わぬ肉塊だったはずの男たちが、不気味な骨の軋み音を立てて蠢き始めた。
「おいおい、なんだこれは……生き返った……」
天霧の兵が引きつった声を漏らして後ずさりした。
赤鬼の男たちは秀綱の怒号に魂を動かされ、どす黒い焔をギラギラと灯し、半数以上、泥の中から這い上がってきた。
その逆襲は、以前を遥かに凌駕する狂乱の猛攻であった。
痛覚を失ったかのように突き進む赤鬼隊の大太刀が、槍が、むき出しの拳が、天霧の精鋭を次々と引きちぎり、叩き伏せていく。
狭い石芯土橋は瞬く間に漆黒の鎧の屍で足の踏み場もなくなり、押し出された敵兵が次々と湖へと叩き落とされていく。
赤黒く染まった湖面を無数の死体が埋め尽くしていく凄絶な無双劇。
勝利を確信していた天霧の前衛は、この常識の通じぬ生ける執念の前に、文字通り瓦解していた。
──その圧倒的な無双の最中、戦場は突如として、視界を奪うほどの不気味な濃い煙に包まれた。
どこからともなく急速に足元を這い、吹き上がってきたのは、どす黒い紫の煙だった。
その濃霧のような煙は、爆発的な勢いで土橋全体を覆い尽くしていく。
「な、なんだこれは……煙……がはっ!?」
まだ赤鬼隊と刃を交えていた天霧の先鋒兵たちが、唐突に狂ったように咳き込んだ。
彼らは悲鳴を上げる間もなく、瞬時に白目を剥き、全身の筋肉を硬直させて泥の中へとバタバタと倒れ伏していく。
その異様な光景に、戦場に冷たい戦慄が走った。
ゲホッ、がはっ……!
直後、赤鬼の男たちの動きも、唐突に止まった。
どれほど死を恐れぬ不屈の闘志があろうとも、戦場を包む不気味な紫煙を吸い込んだことで、肉体の自由を強制的に奪われていく。
男たちは、鉛のように重くなった身体を引きずり、泥の中に次々と膝を突いて伏していった。
天霧軍の後方、堅牢な本陣の中で、その地獄絵図をじっと見つめ、冷酷に目を細める敵将がいた。
前衛指揮官、葛城主水。
天霧への忠誠は誰よりも強く、主君のためならば手段の汚さも、理不尽な命をもすべて受け入れ、数々の汚れ仕事を陰で担ってきた武将である。
主水は出陣の前、総大将・天霧玄馬の言葉を思い返していた。
『お前にしかできないことをしろ。とにかく正門をこじ開けろ』
その真意を、主水はいま目の前の光景を見て理解した。
(──なるほど。理屈も恐怖も通じぬ獣の群れ。ゆえに、玄馬様は私をここに立たせたか)
今、戦場を完全に包み込み、すべてを沈黙させている紫の煙。
それこそが、葛城の家に代々伝わる秘伝として秘匿していた、戦場を沈黙させる──『土蜘蛛』であった。
主水の故郷である葛城山にのみ生息する巨大な地蜘蛛の毒腺から抽出した液。
そこに、同じ山に自生する猛毒の附子を独自の方法で練り上げた秘薬であった。
吸えば瞬時に五肢の神経を麻痺させ、石のように硬直させる。
風向きや混戦の度合いを誤れば、味方の兵をも等しく巻き込んで全滅させる諸刃の秘薬であり、これほどの混戦で用いれば自軍にも甚大な被害が出る代物であった。
だが、主水は眉一つ動かさず、ただ冷酷に、味方ごと化け物どもを処分したのだ。
「……が、あ……っ」
その最奥で、秀綱もまた全身の感覚を失っていた。
肺を灼く猛毒。それだけではない。
二本の槍に深く貫かれた傷、全身に受けた無数の矢による大量の失血、烈日の熱風がもたらした深刻な脱水。
限界をとうに超えていた肉体に、濃い毒煙という一撃で、ついに秀綱の身体は動かなくなった。
秀綱は、激しい無念に荒い呼吸を泥水に沈めながら、その場に深く這いつくばるしかなかった。
「天霧軍、構わず前進しろ!!」
身動きの取れなくなった赤鬼隊を踏みつぶすように、天霧の次陣が冷酷に進軍してくる。
秀綱の激しく悔いる視線の先で、漆黒の奥から現れた巨大な破城槌が、動けぬ彼らの傍らを通り過ぎ、水鏡城の正門へと何度も、何度も打ち付け破壊していった。
秀綱が倒れ、その意識が闇に呑まれかけていた、まさにその時を同じくして──。
「……ぬ?」
天霧の軍勢の奇妙な動きを剛毅が不審に思った瞬間。
パシャパシャパシャ!と甲高い音が響く。
「まきびしか?!」
黒鉄衆の兵が足元を気にした一瞬の隙を突き、天霧兵の手が動いた。
彼らが投げ放ったのは、鋭い鉤爪と、無数の細い鋼線、あるいは重りとなる鎖が編み込まれた「巨大な捕縛網」であった。
「ぬうっ!?」
剛毅の巨体を狙い、幾重もの網が容赦なく被せられる。
剛毅はフンと鼻息を鳴らし、網を力任せに引きちぎろうと腕に力を込めた。
だが、網に仕込まれた鋼線は、強引に動けば動くほど肉に深く食い込み、甲冑を裂いて血を噴き出させる。
「逃がすな!引けっ!」
周囲の天霧兵たち十数人が、網に繋がる鎖を同時に、全力で引っ張った。
鋼線が剛毅の太い筋肉に食い込み、その自由を奪う。
「おおおおおっ……!姑息な真似をっ!」
剛毅は咆哮し、なおも力で強引に引きずろうとしたが、足元にはまきびしが敷き詰められており、踏ん張りが利かない。
さらに、剛毅の太ももや両腕に鎖付きの鉄錨が打ち込まれ、地面へと固定していく。
どれほどの怪力であろうとも、成す術がない。
剛毅の巨体は、一瞬のうちに無数の鎖と網によって、地面へ引き倒され、捕らえられてしまった。
ズォォォォォォン……!!
腹の底に響くような凄まじい轟音が、水鏡の湖面を、そして城内を激しく揺らした。
バリバリバリバリ、ドシャァァンッ!!
激しい破壊音と共に、水鏡城の正門が、粉々に砕け散り、四方へと激しく飛び散った。
こじ開けられた正門の向こうから、光を吸い込むような漆黒の天霧軍の津波が、一斉に城内へと流れ込んでいく。
剛毅は地面に組み伏せられ、慈恩の作戦は外れ、秀綱は血の海のなかに沈んでいる。
圧倒的な闇が、水鏡城を飲み込んでいった。




