第30章「赤鬼の鈴」
天霧軍、総勢二万。
見渡す限りの地平を漆黒の軍勢が埋め尽くし、巨大な黒い百足のごとく蠢きながら、ただ水鏡城の一点を目指して這い寄っていた。
地を鳴らす無数の足音が、城壁の堅牢な石組みを微かに震わせている。
左右を深い湖水に阻まれた唯一の進軍路──石芯土橋を見下ろし、城壁の上の宮嶋慈恩は、冷徹に戦況を支配していた。
対岸の城下町はすでに激しい炎に包まれ、天を突く黒煙が太陽を覆い隠している。
南風が吸い上げる熱風は、ただ立っているだけで肌が干からび、肺腑が焼き切れるかのような灼熱の地獄だ。
誰もが息を潜める静寂の中、敵の先陣が動いた。
「いよいよだ──敵は城壁を狙ってくる。上の防備を厚くせよ!」
慈恩の鋭い声が城壁に響く。
その傍らで、家臣の宗近が、血走った目を湖面へと向けた。
「慈恩様、湖上の敵船、横一線に広がって迫ってきます!土橋の側からも、防盾を掲げた大軍が押し寄せてきます!」
宗方の緊迫した報告に、慈恩は眉一つ動かさずに右手を掲げた。
「狼狽えるな。八牛弩を構えさせよ!寄せ付けるな、焙烙を落とせ!」
「はっ!」
慈恩の命令を受け、宗近がすぐさま伝令へと反転し、城壁の兵たちへ的確に指図を飛ばしていく。
城壁の端から端までを埋め尽くさんとする、広大な面での一斉突撃が始まった。
敵の小早が水しぶきを上げ、石芯土橋からは漆黒の甲冑が津波のように押し寄せる。
次陣の隙を突く間も与えぬ、息の詰まるような波状の接近。
あちこちから悲鳴のような報告が飛び交うが、慈恩は冷静だった。
完璧に配置された防衛陣地から、軍令を浴びせ、容赦のない迎撃を強行した。
ズドンッ!
轟音と共に、大型兵器「八牛弩」が火を吹いた。
放たれた巨矢は湖上の敵船を木端微塵に粉砕し、乗っていた兵たちをまとめて水底へと叩き落とす。
城壁からは、導火線に火をつけられた焙烙玉が次々と投げ下ろされた。
着水と同時に激しく爆ぜ、凄まじい水柱と炎が敵の進路を塞ぐ。
広く押し寄せる軍勢を一人たりとも近づけぬため、城壁の兵たちは休むことなく弓を引き絞り、無数の矢の雨を浴びせ続けた。
激しい蹂躙、高所からの圧倒的な迎撃。
戦況は完全に水鏡城の優勢。
慈恩自身もまた、前線で指揮を執りながら自ら強弓を引き、迫り来る敵を正確に射抜いていた。
一時間、二時間、果てしのない拒戦が続く。
幾度も弦を引き絞った慈恩の指は、とっくに皮が裂け、流れる血が弓の握りを赤く染めていた。
感覚の消えた指先からは、白い骨が見えるほど爛れている。
その必死の拒戦の最中、慈恩の脳裏に冷たい違和感が過った。
これほど激しく叩き、無数の船を派手に爆沈させているのだ。
それなのに、湖面から響く敵兵の悲鳴が、驚くほどに少なかった。
慈恩は目を細め、煙の薄間に目を凝らした。
八牛弩の巨矢を浴びて胴体からへし折れた敵兵の影。
そこから飛び散っていたのは、赤黒い血ではなかった。
空中に舞い散るそれは、ちぎれた藁の束だった。
「……何だと?」
慈恩の血の気が引いていく。
先頭で声を張り上げ、船の舳先に立っていたのは、武器すらまともに持たぬ、一握りの囮の雑兵たち。
大軍に見えたものは、小船に括り付けられた藁人形の群れだったのだ。
「慈恩様!八牛弩の巨矢、底を突きました!」
「いたる所で焙烙玉が残り僅かです!や、矢も尽きました!」
部下たちの絶望的な悲鳴が城壁を駆け巡る。
宗近が青ざめた顔で慈恩へと駆け寄った。
「慈恩様、もう撃てるものがありません!手元の矢筒も空です!」
爛れた指から、ぽたぽたと血が滴り落ちる。
「……まさか、謀られた……」
天霧の真の狙いは、城壁の奪取ではなかった。
この烈日の中、無人の小早や藁人形、そして少数の雑兵を城壁の端から端まで広く展開させた。
その兵力を二倍、いやそれ以上に見せかけていたのだ。
慈恩は、その幻影の大軍に対する過剰な拒戦と物量の浪費によって、強制的に防衛資源を叩き割られていた。
その瞬間、石芯土橋の奥で不気味な太鼓の音が響いた。
囮の煙幕の向こうから、本物の重装歩兵団が姿を現した。
正門を攻める天霧軍の進軍速度が跳ね上がる。
さらにその中央からは、城門を粉砕するための巨大な破城槌が現れた。
遮る矢も、爆ちる焙烙も、もう上空にはない。
敵の狙いが城壁ではなく、最初から地上の正門突破であることに、慈恩は完全に気づかされた。
「宗近!敵の真の狙いは下だ!正門の防備へ回れ!」
慈恩は喉を震わせて叫んだ。
「城内に残るすべての予備兵力を、今すぐ地上の正門へ投入しろ!」
「はっ!ただちに正門へ向かわせます!」
宗近は即座に踵を返し、城壁の下へと続く階段へ向かって怒号を上げながら走り出した。
「天霧……」
慈恩の胸に、かつてないほどの激しい焦燥と不安が突き刺さる。
慈恩は痛む手を無視して長袴を掴み上げ、急いで城壁の下へ向かって走り出した。
焦りで呼吸が乱れ、灼熱の熱風が肺を焼くが、足を止めるわけにはいかなかった。
正門の真上に位置する、一段低い防壁の櫓へと慈恩は飛び込んだ。
そこから見下ろした地上は、圧倒的な物量が直に牙を剥く地獄と化していた。
降り注ぐ援護の矢が止まったことを察知した天霧軍は、ここぞとばかりに正門前へと殺到している。
その凄まじい重圧を正面から迎え撃つのは、坂本秀綱率いる「赤鬼隊」だった。
慈恩は櫓の狭間に両手を突き、身を乗り出すようにして、激戦を心配そうに見守った。
その目は、冷徹な軍師のものではなく、友の身を案じる一人の男の目だった。
数倍の敵に囲まれ、矢の援護もない状況下で、一人、また一人と肉の壁が削られていく。
それでも彼らは退かなかった。
その中心で、秀綱の大太刀が嵐のように吹き荒れていた。
返り血で全身を赤色に染め上げ、鬼のように嗤っていた。
だが、どれだけ斬っても敵の波は途切れない。
(耐えてくれ、秀綱……)
上空からの射撃援護を完全に失った地上は、地獄と化していた。
ドスッ!ズンッ!
「がはっ……!」
ついに天霧の槍が二本、秀綱の左肩と脇腹を深く貫通した。
秀綱は突き刺さった槍の柄を両手で掴むと、肉を引き裂く音を無視して己の体にさらに深く押し込み、強引に敵兵二体を引き寄せた。
ギョロリと両の眼球を剥く。
「よぉ……捕まえたぞ、羽虫ども」
右腕一本で大太刀を一閃した。
ズドンッ!
二人の敵兵がまとめて袈裟懸けに斬り伏せられるが、遠巻きの弓矢が雨のように秀綱を穿つ。
大量の失血に、秀綱は大太刀を杖代わりに泥水の中へとドサリと倒れ伏した。
「やったぞ!赤鬼の大将を倒した!」
敵軍が沸き立つ。
「秀綱ぁーーーーー!!」
櫓の上から、慈恩の裂けんばかりの絶叫が戦場へと響き渡った。
冷静沈着だった知将が、喉を血で濡らすほどの悲痛な叫びだった。
「おい!頭がへたばったぞ」
「あんた、本当にろくな死に方しねえな」
大将が倒れたにもかかわらず、周囲の赤鬼の者たちは、駆け寄るどころか一瞥もくれず、ただ呪詛のような笑いを浮かせて戦い続けていた。
「な、なんだこいつらは……!」
「大将が死にそうだというのに、なぜ笑っている……!」
天霧の重装歩兵たちが、じりじりと恐怖に身を震わせ、後ろへ足を踏み出す。
戦場の地鳴りも、爆炎の轟音も一瞬で遠のき、意識が闇の縁へと落ちていく秀綱の、その耳の奥で──。
──シャン……。
微かに震えた小さな鈴の音。




