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第29章「水鏡城包囲」

 季節は巡り、夏。

 本来なら、生命が最も輝くはずの季節。

 しかし、今の月光国に降り注ぐのは、万物の命を干からびさせ、これから始まる地獄を冷酷に見下ろすような、残酷な烈日であった。

 押し潰すような蝉時雨が耳鳴りのように激しく響き渡る中、地平線の彼方から、大地を真っ黒に染め上げる二万の「死」の行軍が、月光国最後の砦──水鏡城(すいきょうじょう)の対岸にある城下町へと迫っていた。

 水鏡城──それは、広大な湖の北側に、突き出た半島状の地形を利用して築かれた、月光国最大の要塞である。

 無風の夜には、周囲を囲む静謐な湖面に城の全景が鏡のように美しく映り込むことから、その名がつけられた。

 南側の城下町から、この天然の堀である湖上を一直線に貫いて、城の正門へと繋がる巨大な一本の陸路──「石芯土橋(せきしんどばし)」だけが、城へと至る唯一の生命線であった。

「おのれ、天霧の狗どもめ!」

「ここは俺たちの土地だ!一歩も入れさせるな!」

 鍬や鎌、ただの竹槍を手にした農民たちが、決死の形相で声を張り上げていた。

 若者だけでなく、老人や女、子供までもが泥に塗れながら、瓦や石を掴んで敵の先鋒へと投げつける。

 長年この豊かな土地に恩恵を受けて生きてきた民たちにとって、ここは命を懸けても譲れぬ故郷であった。

 その泥臭くも凄絶な民衆の抵抗を正面から支え、その武勇で敵を堰き止めているのは、月光国「月代衆」であった。

 その先頭で、数打ちの無骨な太刀を構え、天霧の重装歩兵の渦へと飛び込んでいく三人の男たちがいた。

 月代衆の三大将──鳴海勘兵衛(なるみかんべえ)、真壁惣右衛門(まかべそうえもん)、高坂太兵衛(こうさかたへえ)である。

 天霧の先鋒が槍衾を揃えて突っ込んでくる。

 洗練された陣形に対し、三大将の戦い方は凄まじく野暮で、精度よりも圧倒的な容赦のなさが際立っていた。

「──おい、天霧の」

 勘兵衛が地響きのような声で嗤うと同時に、真っ向から太刀を振り下ろした。

 凄まじい腕力で叩きつけられた刃は、先頭の敵兵の鉄盾ごと頭頭を叩き割る。

 だが、強引すぎる一撃の代償として、勘兵衛の刀は敵の甲冑の骨組みに噛み込み、根元からボキリと折れ飛んだ。

 普通の武者なら色を失う瞬間。

 しかし、元ならず者の親分は動じない。

「鈍らがッ!」

 勘兵衛は折れた刀の柄を敵の面木へ叩きつけると、そのまま相手の喉笛を素手で掴んで引きずり倒し、奪い取った敵の槍を別の兵の腹へ深く突き刺した。

「勘兵衛、右が空きすぎだ!」

 死角から迫る三本の槍を、惣右衛門が真横から浴びせるような体当たりで強引に撥ね退ける。

 懐へ踏み込んだ惣右衛門は太刀を捨て、敵の髪の毛を掴んで地面の泥へ叩きつけた。

 馬乗りになり、相手の兜の隙間に向かって拳を何度も叩きつける。

 鉄が肉を砕く鈍い音が響く。

 さらに後方、民へ向けられた敵の隠し刃を、太兵衛が無言で引き裂いた。

 太兵衛はすでに事切れた敵の巨体を盾代わりに背負い、飛来する矢をその死体で受け止めながら敵陣へ突っ込んでいく。

 敵の顔面に泥を蹴り上げ、目潰しを喰らった敵の喉元へ、死体の陰から無造作に太刀を突き立てた。

 流派の型など一角もない。

 殴り、蹴り、噛みつき、武器を奪う。

 かつて死罪を免れた荒くれ者が、先代の器に惚れ込んで生まれたのが月代衆の三大将だ。

 先代への大恩と愛国心だけを武器に、彼らはどれだけ傷つこうとも、不敵なやせ我慢の構えで道を塞いだ。

「前を見て走れ、ボウズ」

 太兵衛は逃げ遅れた子供を大きな背中で庇いながら、その背中を力強く押した。

「ここは俺たち月代衆の縄張りだ。泥棒猫が一匹残らず失せるまで、誰も死なせやしねえよ」

 だが、敵は二万。十人倒せば、背後から無傷の三十人が盾を揃えて押し寄せてくる。

「くそ、きりがねえ……!」

 惣右衛門が肩で息をしながら、迫りくる鉄の壁を睨みつけた。

 どれだけ殴り倒しても、黒い津波は減らない。

 じりじりと、確実に三大将の足場が削られていく。

 敵の刃が、槍が、容赦なく彼らの肉を切り裂き、血が泥を赤く染めていく。

 三大将が血反吐を吐きながら一歩も引かずに敵を堰き止めている隙に、音もなく戦場を駆け、民を裏道へと導いている影があった。

 宮嶋家の隠密──藤原である。

「……そこ、足を止めるな」

 藤原の低く冷徹な声が農民たちを促す。

「荷物は捨てろ。命だけ抱えて走れ」

 背後から迫りくる天霧の斥候の喉元を、藤原は振り返りざまに一瞬で切り裂いた。

 血飛沫を浴びながらも表情一つ変えずに、次の農民の背中を押す。

 藤原は三大将の惨状に歯噛みし、すぐに鋭い目を農民たちに向けた。

「急げ。橋を渡って城内へ入れ!」

 だが、故郷を焼かれまいとする民たちの抵抗は予想以上に激しく、避難の足並みは狂う一方だった。

 誰もが我が家を守ろうと、天霧の兵に泥臭くすがりついていく。

 その時、天霧軍の中央、戦場を見下ろす巨大な移動櫓の上で、敵総大将・天霧玄馬の軍配が振られた。

「放て」

 天空を黒く埋め尽くすほどの、数千条の「火矢」の雨が城下町へと降り注いだ。

 連日の干ばつで極限まで乾ききっていた町は、瞬く間に紅蓮の炎に包まれた。

 まだ民が残っていることなど、考慮に値すらしない。

 爆ぜる建物の音、立ち上る黒煙、指示をかき消す民の悲鳴。

 城下町はまたたく間に、火の海へと変貌していった。


 湖を挟んだ北側、水鏡城の大手門へと繋がる高い城壁の上。

 宮嶋慈恩は、血が滲むほどに城壁の石を握り締め、対岸の凄凄たる光景を凝視していた。その隣には、地上で陣頭指揮を執る坂本秀綱がいる。

 いつもなら不敵な軽口を叩くはずの秀綱が、今は完全に口を閉ざし、拳が白くなるほどに太刀の柄を握りしめていた。

 対岸の戦場は、もはや生身の人間が立ち向かえる領域を超えている。

 それを、二人は無言で見つめるしかなかった。

「……馬鹿者が。なぜ、まだあんなに多くの民が残っているのだ」

 慈恩の細い眉が、苦渋に歪んだ。

「私の計算では、とっくに城内への避難は完了しているはずだった。これでは、月代衆まで……」

 対岸の城下町は、急速に声を失っていった。

 炎の勢いが増すごとに、天霧の圧倒的な物量によって、民の抵抗は力任せに圧殺されていく。

 美しいはずの水鏡の湖畔は、じわじわと赤黒い死体の山で埋め尽くされていった。

「──がはっ、くそ、垂れ流す血も残ってねえぞ……!」

 燃え盛る家屋の梁を背中で受け止め、民の退路を死守しながら、勘兵衛が血塗れの顔で吠えた。

 甲冑は引き裂かれ、もはや満身創痍。

「惣右衛門、太兵衛……!生き残りを橋へ叩き込め……!」

 それが、三大将の最後の意地だった。

 惣右衛門が自らの体ごと敵の槍衾へ突っ込んで道を開き、太兵衛が残った片腕で民の背中を橋へと押し進める。

 藤原が辛うじて生き残った一握りの民を橋へと送り届け、制圧されかけた三大将を強引に引きずり回して撤退させた時には、月光国の豊かな城下町は、完全に灰燼と化していた。

 そして、城下町の蹂躙を終えた天霧の漆黒の軍団が、ついに動き出した。

 ──ドォン、ドォン、ドォン、ドォン。

 大地を噛み砕くような、無機質な地鳴りが赤く染まった湖面を震わせる。

 城下町から水鏡城正門へと一直線に伸びる、唯一の進軍路──石芯土橋(せきしんどばし)。

 天然の岩盤と巨石を精緻に噛み合わせた芯に土を突き固めたこの道は、城壁並みの圧倒的な強度を誇るが、その横幅はわずか四間(約七メートル)足らず。

 左右を足のつかない深い湖水に阻まれたその狭い一本道へ、先前の野戦要塞を牛頭に強引に突破した、光を吸い込むような黒い甲冑の群れが、隙間なく敷き詰められるようにして進軍を開始した。

「……前線の要塞を抜かれ、ついにここまで攻め込まれたか」

 城壁の上で、慈恩の顔が険しく歪んだ。

「もはや、この橋しか防衛線はないぞ」

「ああ。覚悟はできてんだろ、軍師殿」

 秀綱が、絞り出すような声で湖面を指差した。

「だが……ありゃあちっとばかり、お目にかかったことのねえ多さだぜ」

 絶望は、それだけでは終わらなかった。

 城下町の湖畔から、無数の小早が、まるで水面を這う黒い虫の群れのように、次々と水鏡城へ向けて漕ぎ出してきたのだ。

 舟を埋め尽くす天霧の兵たちが、ギラつく刃を掲げて湖を渡ってくる。

 燃え盛る城下町の紅蓮の炎が、無風の湖面に不気味に反射し、世界を上下とも真っ赤に染め上げていた。

 その血のように赤い「水鏡」の上を、一本の黒い筋となった石芯土橋の軍勢と、水面を埋め尽くす無数の小早が、確実に城へと迫ってくる。

 視界のすべてが天霧の兵で埋め尽くされていた。

 二万という圧倒的な暴力の波が、水鏡城の喉元を締め上げるようにして押し寄せてくる。

 城壁の上、爛れた指で弓を握り直す慈恩。

 地上の正門前、大太刀を不敵に肩に担ぎ、獰猛に唇を吊り上げる秀綱。

 みしりと音を立てて漆黒の金砕棒を構え直す剛毅。

 剛毅は、傷だらけの彼らの凄絶なやせ我慢の姿を見届け、腹の底から絞り出すような声を落とした。

「ようやった」

 そして剛毅は、赤く染まった世界の向こうから迫る圧倒的な闇を正面から睨み据え、地響きのような低音で、地獄の幕開けを告げた。

「…………来るぞ」

 月光国の命運を賭けた、本当の戦いが、今まさに始まろうとしていた。

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