第28章「暴走の代償」
月光の国境、最後の砦。
水鏡城へと直通する広大な月影平原。
重苦しい鉛色の雲が低く垂れ込め、湿った風が草波を激しく揺らすその平原を遮るように、慈恩が築き上げた最終防衛線である野戦要塞がそびえ立っていた。
幾重もの土塁と鉄柵を緻密に噛み合わせたその構えは、月光国の命運を繋ぐ最後の鉄鎖に他ならない。
最前線の頑強な防塁の上に立ち、微動だにせず地平を睨み据えるのは寺下剛毅。
その背後には、「黒鉄衆」の僧兵たちが、墨染めの衣の内に殺気を秘めて並んでいた。
一方、要塞から少し外れた側面には、水鏡隊がひっそりと配置されていた。
そこは、大人の背丈を遥かに超える葦が深く生い茂る地帯であった。
一見すればただの荒地だが、その奥には、要塞を迂回できる「道」が存在していた。
山から瀕死の小夜を死に物狂いで運び降ろし、薬師へと託したばかりの水鏡隊。
鈴音や千早、源太たちの顔には激しい疲弊と焦燥が色濃く染みついている。
だが、この生命線が破られれば水鏡城へと繋がってしまう。
彼らは息つく暇もないまま、この隠された要塞の脇腹を死守すべく、刃を握りしめていた。
さらに後方の広大な平野には、万一の事態に備えて赤鬼隊と月代衆が静かに陣を構えていた。
月光国に残された全兵力をもってしても、この広大な平原を埋めるには分厚いとは言えない。
これが文字通りの限界布陣であった。
遥か彼方の丘の上、天霧軍総大将・天霧玄馬は、眼下に広がる月光国の布陣を冷めた目で見下ろし、退屈そうにあくびを噛み殺した。
その指先が、無造作に前線を指し示す。
「……おい、あれを呼べ」
本陣から伝令が走ると同時に、天霧の陣割りが大きく左右に開いた。
玄馬の指令を受け、天霧軍の後方から、地面を重く揺らす一団が現れた。
それは、異様な威圧感を放つ重装歩兵部隊だった。
特徴的なのは、全員が左手に巨大なスパイク付きの盾を持ち、右手には長く太い鎖がついた戦斧を携えていることだ。
その先頭に立つのは、丸太のような腕に鎖を巻き付けた巨漢の将――「赤錆の猛牛」の異名を持つ牛頭であった。
「へっ、あいつが噂の『金剛』か。……俺の鎖で引き摺り回してやる」
その背後からは、同じく漆黒の甲冑に身を包んだ牛頭軍の巨漢たちが出発し、要塞へとじりじりと距離を詰めてきた。
鉄柵に敵が激突した瞬間、地を揺るがすような衝撃とともに、凄絶な白兵戦の火蓋が切られた。
防塁の上から戦況を睨む剛毅の目に、激しく火花を散らす最前線の刃が映る。
「ぬうううん!」
「押し返せ!一歩も退くな!」
金属音と怒号が重なり合い、平原に爆音となって反響する。
押し寄せる牛頭軍の兵たちの武力は凄まじく、これまでの有象無象とは格が違っていた。
激突の最前線では、鍛え抜かれた黒鉄衆の僧兵たちと天霧の精鋭たちが、完全に互角の力で組み合っている。
力と力が正面から激しくぶつかり合い、泥を跳ね上げる戦況は一進一退の均衡を保つ。
しかし、敵の個々の質量と絶え間ない重圧は、確実に防衛線を蝕んでいた。
鉄柵は悲鳴を上げ、黒鉄衆の奮戦をしてもなお、じりじりと力負けして内側へと押し込まれていく。
「防塁が保たん!」
「押されるな、踏ん張れ!!」
前線の至る所から、緊迫した叫びが上がった。
その凄惨な混戦の最中、前線で組み合っていた牛頭軍の巨漢たちが、突如として一斉に得物を引き戻した。
その動きはあまりにも統率されており、不気味な空白を生む。
「鎖を回せ!」
敵の兵たちが、要塞の最前線に打ち込まれている太い親杭へ、手慣れた手つきで極太の鉄鎖をガチガチと巻き付け始めた。
「な、何をする気だ──!?」
不審に思った僧兵が叫んだ瞬間、牛頭の野太い大音声が平原に響き渡る。
「引けぇぇいっ!!」
牛頭軍の兵たちが一斉に泥を蹴り、怪力で鉄鎖を全力で引き絞った。
凄絶な地響きとともに、要塞の骨組みを支えていた強固な親杭が、土煙を上げて地面から強引に引っこ抜かれる。
だが、悲劇はそれだけでは終わらなかった。
この要塞は、力負けしないよう、剛毅がすべての鉄柵と防塁を頑丈な鉄帯で繋ぎ、全体で衝撃を分散させる一つの強固な骨組みとして設計したものだった。
その完璧な設計が、最悪の形で仇となる。
一本の杭が強引に引っ張られた衝撃が、緊結された鉄帯を伝って隣へ、さらにその隣へと伝播していく。
バリバリバリバリと凄絶な破壊音が連鎖し、要塞全体の鉄柵と土塁が、内側へ巻き込まれるようにして大崩落を始めた。
「しまっ──、鉄柵ごと土塁が崩れるぞ!」
「足場が、ぐあああッ!」
「な……っ!?」
足元が崩落していく光景に、剛毅の心臓が激しく跳ね上がった。
完璧な防壁が自らを圧殺する罠へと反転していく。
さらに追い打ちをかけるように、崩れ落ちた土煙の向こうから、牛頭軍の兵たちに押し出されるようにして前線に引きずり出されてきた者たちがいた。
武器を持たぬ老人、怯えきった子供たち。
それは、かつて剛毅が守ろうとし、守りきれずに置き去りにせざるを得なかった黒川家の人々であった。
「ひはは!ほら、得意の棒で磨り潰してみせろよ、金剛!」
盾の隙間から覗く牛頭の卑劣な嘲りが、剛毅の耳を執拗に打つ。
剛毅の全身の血が沸騰し、視界が真っ赤に染まった。
握り締めた漆黒の金砕棒からみしりと音が鳴る。
今すぐこの防塁を飛び降り、あの下卑た面を叩き潰したいという衝動が脳髄を駆け巡る。
『剛毅、絶対にこちらから突撃してはならん。要塞の防御で敵を削るのだ。万一のときは、背後の陣へ逃げるのだ』
剛毅の脳裏には、出陣前に慈恩から言い渡されていた言葉が重く響いていた。
「動くな……!陣を崩すな!」
剛毅は自らに言い聞かせるように、裂帛の気合で黒鉄衆に向かって必死に声を張り上げた。
「耐えろ!決して前に出るなっ!!」
剛毅の言葉を受け、黒鉄衆の僧兵たちは歯を食いしばり、崩れかける要塞の瓦礫の上で踏みとどまった。
自らの防壁に潰されながらも、押し寄せる天霧の猛攻を肉の壁となって耐え続ける。
その時、牛頭のぎらつく眼が、要塞の遥か側面で不自然に波打つ葦の巨群へと向けられた。
ただの荒地に見えるが、風の揺れ方とは明らかに違う微かな葉擦れの音、そして密集した緑の隙間に、一瞬だけ鋭く閃いた武具の影。
「ん?」
牛頭は戦斧の柄をじり、と握り直した。
その直感の鋭さは、戦場を生き抜いた猛牛そのものであった。
「……なるほど。あそこから通れるわけか」
要塞を迂回し、一気に背後へ抜けられる致命的な間道の存在を、牛頭の戦術脳が瞬時に割り出した。
ニィ、と下卑た唇が吊り上がる。
「あの草むらを踏み潰せ!放てっ!」
牛頭軍の一部が、突如として要塞の正面から真横へと向きを変えた。
水鏡隊に向けて、無数の黒い矢の雨を放ちながら、猛然と突撃を開始したのだ。
この予測不能の急襲に、要塞の側面に位置にいた水鏡隊は完全に虚を突かれた。
慌てて盾を掲げ、防戦の構えを急ぎ整えようとするものの、敵の牙は迫っている。
その光景が視界に飛び込んできた瞬間、剛毅の頭の中で、辛うじて繋がっていた絶対の一線が完全に弾け飛んだ。
「おのれぇぇぇぇ、貴様らぁぁぁぁぁ!!!」
作戦も、退却の命令も、すべてが脳裏から吹き飛んでしまった。
剛毅は金砕棒を荒々しく振り回し、要塞を駆け下りて平原へと隕石のように突撃した。
主の暴走を見た黒鉄衆の僧兵たちも、絶叫を上げてその後に続く。
「馬鹿者が!剛毅が飛び出しおった!」
「援護に向かうぞ、続けっ!」
後方の平野で控えていた赤鬼隊と月代衆の将たちも、剛毅の暴走によって完全に戦術を狂わされ、壊滅を阻止するためにやむを得ず平原へと一斉に撃って出てしまった。
月光国軍の陣形が、前へと完全に伸びきったその瞬間であった。
地響きを立てて、平原の左右の地平から地面を割るような大音声が轟いた。
剛毅たちが突出したことで手薄になった月光国軍の側面を狙い、これまで気配を隠して潜んでいた天霧の別部隊が、左右から一斉に突撃してきたのだ。
天霧玄馬の狙いは、最初から剛毅の感情を揺さぶり、剛毅を引きづり出した上での、この大挟撃であった。
先に突撃した黒鉄衆は、牛頭を討ち取るためだけに敵陣の奥深くへ突入しすぎていた。
気がつけば完全に孤立し、四方八方を互角の武を持つ牛頭軍の黒い甲冑に囲まれていた。
もはやそこにあるのは戦術なき乱戦であった。
数の暴力と完璧な包囲に圧殺され、黒鉄衆の僧兵たちが、一人、また一人と倒れ伏していく。
黒鉄側に甚大な被害が広がっていく。
「ぐ、ああぁッ!」
剛毅自身の頑強な重甲冑も引き裂かれ、無数の刃がその肉を無慈悲に削っていく。
あまりの一方的な展開と凄惨な戦況に、全滅が現実となりかけたその時、大気を引き裂く轟音が戦場に響き渡った。
剛毅の「前方」で彼を圧殺しようとしていた重装兵たちの盾が、まるで紙細工のように粉砕され、兵士ごと三、四人まとめて吹き飛んだ。
「なっ、なんだ!?」
敵軍が混乱する中、丘の上から冷徹な声が響き渡る。
「何を血迷っておるのだ!」
丘の上に現れたのは、宮嶋慈恩率いる巨郭部隊。
彼らが構えていたのは、数人がかりで引くような巨大な攻城兵器、『八牛弩』と呼ばれる据え置き型の剛弓であった。
放たれるのは矢ではなく、鉄杭のような極太のボルトだ。
「じ、慈恩……」
剛毅が呆然と見上げる。
慈恩は戦場を見渡し、次なる太矢を装填させた。
「次弾装填!剛毅の前方を粉砕し、黒鉄衆の血路を抉じ開けろ!」
ドォォォンッ!!
再び放たれた轟音と共に、鉄杭が剛毅の前方の敵を盾ごと肉体ごと粉砕する。
それは援護射撃というよりは、局所的な「破壊」であった。
そして、その開かれた前方とは逆の「後方」から、凄絶な剣気を放つ秀綱が泥を跳ね上げて肉薄した。
秀綱は『赤鬼隊』を率い、天霧の大包囲網のわずかな歪みを強行突破で切り裂き、剛毅たちのために後方の退路を抉じ開けていた。
「剛毅!突っ込むな、退けぇぇ!」
秀綱の烈火の如き叫びが響き渡る。
前方からの慈恩の圧倒的な破壊、裂かれた後方からの秀綱の決死の退路。
お互いが凄絶な援護を行うことで、絶望の包囲網に確かな隙間が生まれた。
剛毅は己の愚かさに血涙を流しながら、崩壊した黒鉄衆の生き残りとともに、命からがら平原を敗走していった。
「あと一歩で金剛の首が獲れたってのに……宮嶋ぁ……俺様がこの手で葬ってやる」
牛頭は丸太のような腕に巻き付けた極太の鎖をみしりと軋ませ、丘の上の慈恩を血走った眼で睨み据えた。
敵の挑発に乗り、軍令を無視し、感情のままに軍を暴走させた。
その結果が、この無様な敗走。
黒鉄衆は最も甚大な被害を出した。
慈恩の要塞は崩壊し、野戦の拠点を完全に失った。
引き抜かれた鉄柵、無残に崩壊した土塁、および泥の中に打ち捨てられた月光国の軍旗。
要塞の跡地を見下ろす高台の上、天霧玄馬は、静かに佇んでいた。
「……やはり獣か」
その漆黒の外套が、風に煽られて不気味に翻る。




