第27章「白銀の囮」
「顔を上げよ!月光の国の誇り高き兵たちよ!!」
白い闇を切り裂いて響き渡ったその大音声は、戦場全体の空気を一瞬で震わせた。
天霧の堅牢な包囲網の、まさにその正面から、力尽くで強行突破して躍り出てきたのは、白毛の名馬に跨り、月光を織り込んだような純白の甲冑をまとった若き乙女──月光の国総大将、月夜見であった。
地を飛ぶ鉤縄も、全方位から降り注ぐ矢の雨も、彼女の駆る名馬の吶喊の前にはただの障害物にもならなかった。
風になびかせた白銀の髪。
月夜見は凄まじい制動のまま、手にした白銀の薙刀を、傍らにそびえる巨岩へと容赦なく叩きつけた。
金属と岩石が真っ向から激突する、凄絶な破壊音。
キィィィィィィィィンッ!!!!!
狂ったような金属鳴りが山岳全体に炸裂した。
それは、この濃霧の中で「音」だけを生命線として神経を研ぎ澄ませていた天霧の兵たちにとって、致命的な衝撃だった。
凄まじい爆音の飽和に、周囲を密に囲んでいた兵たちが一斉に両耳を押さえ、悲鳴すら上げられずに激しく足元をよろめかせる。
完璧だったはずの包囲網が、その一打の衝撃音だけで瞬時に崩れ去った。
さらに、突風によって霧が完全に晴れ去ったことで、山道の奥から天霧の後続の軍勢が、地響きを立てて際限なく押し寄せつつあった。
人間の足、鎧、槍の先端が、視界の奥から黒い津波のように次々と湧き出し、こちらへ向かって殺到してくる。
(なんだ、あの数は……っ)
千早はその圧倒的な数に、一瞬だけ身体の芯が凍りつくような恐怖を覚えた。
「月夜見様がお見えだぁぁっ!!」
しかし、その絶望を切り裂いたのは、月代衆たちの咆哮だった。
総大将の現臨に、彼らの凍りついていた士気が爆発的な熱量へと変わる。
兵たちは錆びた大盾を再び噛み合わせ、押し寄せせる後続の軍勢に対し、文字通り肉の防壁となって正面からぶつかり合った。
肉と肉が衝突する凄まじい濁音。
一歩も退かぬ古参の奮戦が、敵の津波を力尽くで堰き止める。
その間に、月夜見の薙刀が円の軌道を描いて一閃した。
澱みのない、流れるような太刀筋。
だが、その美しさとは裏腹に、宿る勁力には一切の容赦がない。
群がる天霧兵を文字通り紙屑のように両断し、瞬きする間に肉の防壁を切り裂いていく。
千早は戦いながら、その滑らかな動きの残像に息を呑んでいた。
自分の骨が、筋肉が、かつて受けた過酷な修練の記憶と共に、彼女の運命的な身のこなしを強烈に思い出していたからだ。
水鏡流に、酷似している。
月夜見の戦術的判断は冷徹だった。
これ以上の交戦は兵を無駄に磨り潰すだけだと悟るや、即座に馬首を天霧の大軍の方へと向けた。
敵の全神経を自分一人に縛り付けるため、大きく息を吸い込み、戦場全体を震わせるような、凛とした大音声で名乗りを上げた。
「聞けぇぇっ、天霧の者ども!我こそは水鏡城主・月光の国総大将・月夜見なり!!」
その声は雷鳴のように轟き、進軍する敵軍全体の足を完全に止めさせた。
数千の敵のぎらついた視線が、美しき一人の乙女に集中する。
月夜見は不敵に微笑み、手薄な山奥──誰もいない死地へと続く獣道を薙刀で真っ直ぐに指し示した。
「我が首、欲しくば追ってまいれ!……地獄の底まで案内してやろう!」
彼女は馬腹を激しく蹴り、単騎、深い森の奥へと駆け出した。
白銀の髪を鮮やかになびかせ、すべての敵を引きつけるように。
「逃がすな!大手柄だぞ!全軍、あの女を追えぇっ!」
功名心に火がついた天霧の大軍は、雪崩を打って月夜見の後を追い始めた。
数千の地響きが、彼女の消えた森へと一気に吸い込まれていく。
鈴音は、その地響きが交錯する激しい乱戦の中を、千早と共に迅速に行動していた。
月夜見を追って雪崩を打つ天霧の本隊。
それに斬り込む月代衆。
敵味方が入り乱れ、怒号と硝煙が渦巻く混沌のなか、鈴音の視線の先に、自らの隊長である静流の姿があった。
静流の前には、あの「目なき将」が立っていた。
だが、かつてあれほど水鏡軍を恐怖に陥れた男の面影は、そこにはなかった。
月夜見の放ったあの怪音と、その直後に始まった怒涛の乱戦による凄まじい雑音の飽和のなかに放り込まれたことで、彼は四方八方からの音を拾う余地を奪われ、「耳」という自らの目を失っていた。
平衡感覚すら奪われ、男は武器を握ることもできず、ただ無様に立ち尽くしている。
周囲の戦況は一変していた。
あるものは月夜見の首を求めて我先にと森へ追いかけ、またあるものは逃げ惑う。
誰一人として彼を守ろうとするものはなかった。
ただ一人、泥のなかで孤立し、哀れに迷い狂う「目なき将」。
その姿を間近で見据える静流の瞳には、同情の色など微塵もなかった。
五感の欠損という過酷な運命を背負いながら、それを他者への残虐な殺戮の免罪符とし、自らの心の闇へと変えてしまった男。
静流は無言のまま歩み寄り、その喉元へ軟剣の切っ先を突きつけた。
「──天を怨み、人を呪うか。刀を握る資格はない」
目なき将が絶望に顔を歪めた、その一瞬。
静流はただ無造作に、一閃のもとに男の首を撥ね飛ばした。
静流は返り血を拭う間もなく刀を引き抜き、そのまま血の滲むような視線を、月夜見の消えた森の闇へと向け直した。
「姫様……っ!行かないでください!」
千早が必死に叫んだが、月夜見の白い背中は、すでに深い森の闇へと完全に消え去っていた。
自らを囮にし、兵士たちの命を繋いだ、白銀の残光。
その圧倒的な威光が去り、数千の地響きが遠のいていくと、戦場には耳が痛くなるほどの、奇妙な静寂が戻ってきた。
月代衆の老兵たちも、水鏡隊の兵たちも、未だ熱の冷めぬ得物を握りしめたまま、総大将の消えた黒い森の奥を呆然と見つめている。
戦いは終わった。いや、強引に終わらされたのだ。
「小夜!どこ?!……小夜?」
沈黙を破ったのは、鈴音の叫びだった。
鈴音は霧の晴れた右翼の茂みへと走り、その草木をかき分けた──。
そこには、うつ伏せに倒れた小夜の姿があった。
足元には、彼女が相打ちで仕留めたであろう三人の敵兵。
「小夜!!」
鈴音が取り乱して抱き起こす。
しかし、小夜の体はぐったりと重く、その小さな背には数本の矢が深く突き刺さっていた。
致命傷を負いながらも、痛みに耐え、最期の瞬間まで敵を食い止めていたのだ。
―はい!こっち側はお任せください。姉様たちは前を!―
先ほどの、あのあまりにも穏やかだった声が、鈴音の耳元で残酷に蘇る。
「……嘘」
鈴音の顔から血の気が引いていく。守っていたつもりだった。
だが、実際に身を挺して守られていたのは、自分たちの方だった。
「小夜……っ!ああああああっ!!」
鈴音の消え入るような、しかし激情を孕んだ慟哭が響き渡る。
千早も駆けつけ、変わり果てた仲間の姿に、血が滲むほどに拳を握りしめた。
「心音が、まだある!」
小夜の胸元に耳を当てていた千早が、叫ぶように声を上げた。
「まだ、微かに動いている!源太、小夜を背負え!急いで山を降ろすんだ!」
「一刻を争うぞ!」
月代衆の武者が険しい顔で叫ぶ。
「この深手だ、今すぐ平地へ降ろして薬師に診せねば、間違いなく命はない!」
白銀の残光を残して闇へと消えた、月夜見の祈るような囮行。
そして、手の中でいまにも消え入りそうな、小夜の命の灯火。
水鏡隊は主君を追うことも許されぬまま、一秒の猶予もない絶望の救出戦へと、死に物狂いで走り出すしかなかった。




