第26章「音を狩る霧」
――東の山岳地帯。
天霧軍の別動隊を迎え撃つべく、月光の国の部隊「月代衆」は、険しい尾根の陰に陣を敷き、息を潜めて待ち構えていた。
その補佐として、千早や鈴音たち遊撃部隊「水鏡隊」もまた、彼らの側面に陣を構えている。
しかし、戦が始まる気配はなかった。
丸一日が経過し、二日目の朝を迎えても、峠の向こうからは人馬の足音一つ聞こえてこない。
「……おい、本当に敵はこっちへ向かっておるのか?」
月代衆の古参兵が、重い大盾を泥に突き立てたまま、低い声で隣の兵に問いかけた。
長時間の極限状態の維持は、屈強な彼らの肉体をも確実に蝕んでいた。
山特有の鋭い底冷えと、襲いかかる強烈な眠気に耐えるよう、強く奥歯を噛み締める。
「事前の報せでは、今頃はこの峠を越えているはずじゃがな」
「静かにせんか。敵の間諜に声を拾われるぞ」
隣の若い武者が、槍を握りずり落ちる指を締め直しながら咎める。
張り詰めた緊張を限界まで引き延ばされたことによる濃厚な疲労が、じわじわと陣全体を満たしていく。
鳥の鳴き声すらしない静寂。
ただ、心身を削り取るような不気味な膠着だけが、霧の前の静けさとして横たわっていた。
だがその時、山颪と共に、すべてを反転させる白い闇が押し寄せてきた。
一寸先すら白一色に塗りつぶすほどの、重く、不気味な底冷えのする濃霧。
「……陣形を乱すな。大盾を並べろ」
月代衆の将が、ようやく異変を察知して声を潜めた、その瞬間だった。
シュッ、と微かな風切り音が霧の奥から這い寄った。
直後、老兵のすぐ足元の泥へ、一本の鋭い矢が深く突き刺さる。
「──っ!?」
あまりにも唐突な一矢に、月代衆の間に一瞬で引きつった驚きが走る。
「どこから放たれた!?敵襲だ!敵はどこにおる!」
兵たちが慌てて大盾を構え、互いに口々に叫びながら足元を動かした。
ガシャガシャと、鎧の擦れ合う重い金属音がいとも容易く霧の中に響き渡る。
「落ち着け!むやみに動くな!」
指揮官が怒鳴り、兵たちが混乱の中で会話を交わした、その刹那──。
ザシュッ!!!!
白い闇の向こうから、凄まじい速度で回転する鉄塊が飛び込んできた。
先端に鋭利な刃を備えた鎖鎌。
それが、声を張り上げていた月代衆の兵の足を深く切り裂いた。
「ひっ……、ひいいぃぃっ!!」
血を噴き出し、泥の中に転がって絶叫する兵。
その凄惨な生々しさに、周囲の兵たちの理性が弾け飛んだ。
「ええい、そこか!」
動揺した月代衆は、やみくもに槍を突き出し、霧の向こうへ向けて刀を振り回した。
しかし、手応えは一切ない。
彼らの反撃は、冷たい霧を虚しく切り裂くだけで、すべて不発に終わる。
静寂の霧の奥から、再び音もなく矢が飛来し、今度は反撃していた兵の喉元を正確に貫いた。
「な、なんだこれは……」
「相手は、この霧の中で、こちらが見えているのか……っ!?」
姿の見えぬ敵。
だが、こちらの動きはすべて見透かされている。
月代衆の心に、底知れぬ恐怖が植え付けられていく。
補佐に回っていた水鏡隊もまた、その不気味な連鎖に怯み、足を止めていた。
視界は無い。
だが、自分たちがわずかでも音を発すれば、その場所を目がけて正確に殺戮の刃が飛んでくる。
「……静かに。耳を澄ませ」
千早が刀を構え、視覚を捨てて周囲の音に全神経を集中させる。
カサリ、と右前方、僅かに草木が揺れるかすかな音がした。
「そこだっ!」
水鏡隊の兵が、音がした方向へ向けて一斉に吹き矢や投擲網を放つ。
だが──やはり一向に手応えがない。
まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように、ただ静寂だけが返ってくる。
息を殺す水鏡隊の頭上へ、今度は無差別に矢や礫が降り注いできた。
まるで見えない足元を狙い打つかのような、容赦のない凶弾の雨。
その、静まり返った絶望の空間に、低く、どこからともなく響くような声が降ってきた。
『……こわいか?死ぬのが』
その声には、水鏡軍への嘲りと、圧倒的な余裕が、冷気のように含まれていた。
しかし、静流の冷徹な瞳は、この異常な戦況の本質をとうに分析していた。
音を発せば、即座にそこに刃が飛んでくる。
会話をした声、鎧の擦れる音、泥を踏んだ足音……。
つまり敵は、この霧を巨大な耳としてこちらの『音』だけを頼りに突いてきている。
静流は無言のまま、低く重心を落とした。
──水鏡流・『乱れ水紋』。
一切の音を消し、滑らかな円の軌道を描きながら、静流の軟剣が凄まじい剣圧を以て繰り出された。
鋭い剣風が、前方に渦巻いていた濃霧を強引に、一瞬だけ綺麗に払い除ける。
引き裂かれた霧の僅かな隙間。
そこから、一人の男の顔が、一瞬だけ白日の下に晒された。
(なっ……!?)
静流は心の中で、激しく息を呑んだ。
(目が、ない──!?)
霧の向こうに佇んでいたその天霧の将の顔面には本来あるべき双眸がなく、ただ異様なほどに大きく動く耳だけがあった。
(やはり……盲目……)
だからこそ、この白い闇を支配できていたのだ。
だが、静流は刀の柄を握る手に力を込め、笑みをその唇に浮かべた。
「……目なき将よ、霧がなきゃこわいか?」
静流はその刹那の気配を見逃さず、霧の底へ、流れるように剣を滑り込ませた。
確かな肉の手応え。
刃が敵の肉を突いた。
しかし、手応えがあったのも束の間、激しい霧が再び押し寄せ、周囲の空間を完全に包み込んでしまった。
仕留め切れなかった。
一瞬の攻防の後、戦場は再び漆黒にも似た白い静寂へと引き戻される。
直後、天霧の攻撃は激しさを増し、水鏡軍は防戦一色という泥沼の状況に追い込まれていった。
どこか一点からの突撃ではない。
頭上から、背後から、全方位から無数の矢と礫、精度を持って迫る鉤縄が容赦なく降り注ぐ。
領域そのものを圧殺する全方位の脅威。
静寂を保つことなど、もはや不可能だった。
全方位から晒される圧倒的な死の恐怖に、兵たちは次第に、声を掛け合わざるを得ない極限状態へと追い込まれていく。
「千早!右だ、右から来ている!」
「佐助、大盾の陰に隠れろっ!」
恐怖と必然が、彼らから静寂を奪い、叫びを強要していく。
そしてその声が、さらなる殺戮の雨を呼び寄せるという、最悪の循環に陥っていた。
戦線が完全に瓦解しかけたその時、鈴音は引き裂かれそうな悲鳴を上げた。
「小夜!源太!無事!?」
少し離れた右翼の霧の奥から、小夜の、いつになく穏やかで気丈な声が返ってきた。
「はい!こっち側はお任せください。姉様たちは前を!」
その落ち着いた言葉に、鈴音は安堵し、目の前の全方位の脅威へ再び意識を向けた。
戦場全体に重苦しい敗色が満ちていく。
月代衆の古参兵たちまでもが次々と倒れ、武器を取り落とし始めた──その時だった。
ゴォォォォォッ!!!
東の尾根から、引き裂くような山颪の突風が吹き抜けた。
戦場を覆っていた重い濃霧が、引き剥がされ、視界が白日の下に晒される。
「顔を上げよ!月光の誇り高き兵たちよ!!」




