第25章「鳴動谷の猛将」
水鏡城から西へ一里。
「鳴動谷」と呼ばれる、切り立った断崖に挟まれた狭隘な渓谷。
天を開くような左右の剥き出しの岩壁が太陽の光を完全に遮り、昼なお暗いその天然の回廊を、天霧軍の別動隊が、勝利を確信した足取りで進んでいた。
谷風が岩肌の空洞を駆け抜けるたび、底冷えのする風が「ゴォォォ……」と不気味な地鳴りのような怪音を立てている。
ぬかるんだ泥と湿った苔にまみれた谷底を歩く敵の隊列を、崖の上から剛毅は見下ろしていた。
「……一、二、三……。おい、数が合わぬぞ」
鉄面皮の奥で、剛毅は不意に眉をひそめた。
その手には、指揮棒代わりの太い軍配が握られている。
「報告では、別動隊は五百と聞いていた。だが、谷底を進むあの数……どう見ても二百足らずしかおらん。残りの連中はいったいどこへ消えた?」
剛毅が隣の家臣に低く問いかけた、その時だった。
ピィィィィィ──ッ!!!!
突如、渓谷の空を切り裂くように、甲高い鳥笛の音が響き渡った。
直後、崖の上の草むらから、天霧の国境衆が放った数頭の獰猛な猟犬たちが、牙を剥いて黒鉄衆の潜伏先へと猛烈な勢いで躍り込んできたのだ。
不意を突かれ、吠え立てる犬の牙を避けようとした若い兵の足が、落石の留め金の綱に引っかかる。
凄まじい風切り音と共に、一玉の巨岩が合図を待たずに崖下へと転がり落ちていく。
「待て!まだじゃ、引くなっ!!」
剛毅が制止しようとしたが、すでに遅かった。
凄まじい衝撃音と共に巨岩が谷底へ落下し、進軍していた天霧軍の目の前を粉砕した。
当然、奇襲の気配は、一瞬にして敵に露見する。
「崖の上だ!伏兵がいるぞ!」
「前方の岩に続け!あちこちに散らばれ、遮蔽物に身を隠せ!」
天霧の指揮官が即座に叫び、敵の兵たちは一丸となってまとまるのではなく、蜘蛛の子を散らすように渓谷のあちこへ逃げ惑い、岩の隙間や断崖の窪みへと身を隠し始めた。
このままでは、用意していた落石の大半が虚空を叩くだけに終わってしまう。
「ええい、仕方ない!作戦続行じゃ、構わん、残りの岩もすべて叩き落とせぃ!」
剛毅は豪快に怒鳴りながら、軍配を力任せに振り下ろした。
崖の両側から残りの巨岩と大木が一斉に崩落し、谷底を茶黒い土煙が包み込む。
しかし、敵がすでに散開して逃げ回っていたため、直撃を免れた兵たちが未だに多く残っていた。
「どいておれ、わしが自ら磨り潰してくれるわ!」
剛毅は自身の身長ほどもある六角柱の不骨な鉄塊――「金砕棒」を右肩に力任せに担ぎ直すと、十メートル以上の切り立った崖の縁から、躊躇なく飛び降りた。
ドズンッッ──!!!!
谷底の地面が深く陥没し、地鳴りが走る。
もうもうと立ち込める土煙を強引に引き裂き、剛毅の金砕棒が凄まじい風切り音を立てて横薙ぎに一閃した。
ドゴォォォォォン!!
一振りで四、五人の敵兵がまとめて岩壁まで吹き飛ばされ、肉塊と化す。
その圧倒的な質量と暴力の前に、谷底に散らばっていた天霧兵たちは、抵抗の術すら見出せず、あっという間にその大半が原形を留めぬ骸へと変えられ、瞬く間に制圧された。
だが、あまりにも手応えが軽すぎる。
剛毅が鉄面皮の奥で不審を抱いた、その刹那だった。
ヒュヒュヒュッ!!!!
頭上の高い場所から、耳を裂くような無数の矢の嵐と、激しい火縄の銃撃が降り注いだ。
「ぐわっ!」
「ぬうっ!」
遅れてガレ場を滑り降りようとしていた黒鉄衆の兵たちが、崖の上から狙い撃ちにされ、次々と鮮血を噴き上げて倒れ込んでいく。
「……相変わらず見事な力技だ、剛毅殿。なれど、いささか谷底ばかりに目を奪われすぎたな。お主の戦は、かつての親父殿の代から知り尽くしておる」
見上げる剛毅の視線の先──切り立った崖のさらに上、険しい山道を縫うようにして、残りの三百の天霧軍がずらりと並び、こちらを見下ろしていた。
その先頭で静かに太刀を抜いたのは、かつて月光の国の国境を守り、今は一族の存続のために天霧玄馬へ臣従した高名な老将、黒川源次郎であった。
敵は最初から、谷底を歩く囮の二百と、山道を進む本隊の三百の二手に分かれて進軍していたのだ。
源次郎はこの土地を熟知しており、剛毅の裏をかいてみせた。
戦場においては、上をとったほうが勝ち。
遮蔽物のない谷底に取り残され、頭上から一方的に狙い撃ちにされる黒鉄衆。
上からの容赦ない猛射に晒され続ければ、全滅は時間の問題だった。
圧倒的不利。
完全なる劣勢。
「黒川源次郎殿……お見事な用兵、さすがはかつて我が父と国境を競った御方。なれど、この鳴動谷がなぜそう呼ばれておるか、源次郎殿ならお忘れではありますまい」
剛毅は不敵に笑うと、背後の兵たちへ向けて吠えた。
「黒鉄衆!火薬をすべて集め、苔と生木を山ほどくべて火を放て!」
指示は大雑把だが、黒鉄衆の動きは早かった。
泥にまみれながら火薬樽を中央へ転がし、濡れた生木を次々と積み上げて火種を投げ込む。
刹那、爆発的な硝煙と、水分を含んだ生木が放つ、目も開けられないほど濃厚で凄惨な「黒煙」の柱が狂ったように立ち昇った。
この渓谷は左右を狭い崖に挟まれた狭い回廊。
谷底から上方の山道へ向けて、常に地鳴りを立てる突風のような上昇気流が吹き抜けている。
点火された煙の塊は、その巨大な天然の煙突に吸い込まれるようにして、猛烈な速度で真上の山道へと一気に牙を剥いた。
「ごほっ!な、なんだこの煙は……っ!?前が見えん!」
「目が、目が開けられん!息ができんぞ!」
勝ちを確信していた天霧兵たちは、一瞬にして視界と呼吸を奪われた。
強烈な目潰しと呼吸困難に、崖の上の陣形が動揺し、大混乱に陥る。
その頃、遥か遠くの水鏡城の味方本陣。
慈恩や秀綱のいる司令所からは、西の空を真っ黒に染め上げる巨大な煙の柱がはっきりと見えていた。
「──報告!西の鳴動谷より巨万の黒煙が噴出!」
物見の報告に、本陣の兵たちは色を失った。
あの不気味な黒煙は、天霧軍が誇る最凶の黒色火薬『黒雷』の爆煙と酷似していた。
「まさか西の難所を破られたか!?」
「防衛線が突破されたぞ!宮嶋、坂本の両軍、西へ回せ!」
真実を知らぬ本陣は、予期せぬ大火に、底知れぬ戦慄と大動揺に包み込まれていた。
だが、本物の地獄は鳴動谷の崖の上だった。
「今じゃ!煙に紛れて崖を駆け上がれぃ!叩き潰すぞ!」
剛毅の咆哮と共に、黒鉄衆が一斉に動き出した。
低く重心を落とし、黒錆の装甲の質量を以て、煙の幾重にも巻く斜面を猛烈な勢いで駆け上がっていく。
視界を失い狼狽える天霧兵の真っただ中へ、剛毅が真っ先に躍り出た。
「南無三っ!!」
金砕棒が唸るたびに、視界を奪われて立ち尽くす天霧兵の鉄盾が、頭蓋が、容赦なく粉砕されていく。
背後から駆け上がってきた黒鉄衆も、谷の鳴動に負けじと敵をすり潰していった。
上方の優位を封じられ、至近距離での暴力を前にした天霧の部隊は、抵抗の術すらなく、あっという間にその大半が更地のように均され、手際よく殲滅された。
吹き抜ける谷風が徐々に黒煙を晴らしていく。
その薄暗い視界の奥。
剛毅は、残された将、黒川源次郎へ向けて金砕棒を大きく振りかぶった。
周囲の兵が全滅し、五感を煙に奪われ、絶望的な孤立無援。
しかし、源次郎は太刀を構えたまま動かなかった。
ただじっと、耳を澄ましていた。
迫る剛毅の凄まじい足音。
そして、空気を強烈に引き裂く金砕棒の重低音。
「──剛毅、右の踏み込みが甘い!親父殿と同じ癖よ!!」
キィィィィィンッッ!!!!
源次郎は目が閉じたまま、音だけで金砕棒の軌道を見事に読み切り、自らの太刀の腹でその一撃を斜めへと鮮やかに受け流したのだ。
規格外の質量を受け流された剛毅の巨躯が、わずかに前へよろめく。
百戦錬磨の老将の、意地の一太刀だった。
剛毅は息を呑み、大きな手の甲で刀にこびりついた血を大雑把に拭う。
その顔には、年上の老将の凄みに圧倒された、険しい沈黙だけがあった。
「……源次郎殿。嫌な世にござるな」
ぽつりと、地底に響くような低い声で呟く。
「……ふっ、さすがに腕が痺れるわ。親父殿にそっくりの、情け深い強さだな、剛毅殿」
源次郎は血を吐き、がっくりと膝をついた。
太刀がその手から滑り落ち、硬い岩肌に甲高い音を立てて転がる。
しかし、老将の表情に悔恨はなかった。
そこにあったのは、奇妙なまでの深い安堵だった。
一切の手加減などせず、持てる戦術のすべてを以て全力でぶつかった。
だが、剛毅の規格外の気流戦術を前に、時間を稼ぐこともできずに瞬く間に叩き潰された。
その圧倒的な実力差を前にして、源次郎はむしろ、どこか清々しそうに喉を鳴らして笑った。
「剛毅殿。天霧を侮るな。…敵の弱点を、的確に、容赦なく突いてくる」
源次郎は途切れ途切れの呼吸の中で、静かに目を細め、目の前の巨漢を見据えた。
「剛毅殿。お主の弱点は、どこだ?」
「ないわ」
剛毅は迷わず、地底から響くような声で短く返した。
その傲慢とも言える即答を耳にした瞬間、源次郎の胸に、かつて国境を争った親友の面影が鮮烈に蘇る。
「……ふっ、ないな。お主にはない。……負けるなよ」
掠れた声で源次郎が呟く。
その眼差しには、これから天霧の怪物と対峙せねばならぬ若者への深い心配と、それを遥かに凌駕する、かつての同胞としての誇らしさが満ち満ちていた。
「お主がこの鳴動谷へ来ることは、最初から分かっておったのだ」
源次郎はゆっくりと上体を起こし、岩壁に背を預けた。
「玄馬様からは、別の将を向かわせると言われていた。だが……わしが一族の未来を人質に取られ、捨て石としてここに赴くのなら、最後の相手はお主が良いと、わしが志願してここへ来たのだ」
吹き抜ける谷風が、完全に黒煙をさらい、二人の男の顔を白日の下に晒す。
源次郎は、剛毅の顔をじっと見つめた。
その太い眉、真っ直ぐな瞳、不器用なほど頑固そうな口元。
「……良い顔になったな。親父殿に、そっくりだ」
源次郎はそう満足げに微笑むと、深く息を吐き出し、静かにその瞼を閉じた。
一族の命脈を繋ぐための戦いを終え、かつての友の息子に看取られながら、老将は誇り高くその最期を迎えた。
凄惨な、しかしどこか温かい静寂が鳴動谷を満たす。
剛毅は、物言わぬ大先輩の骸の前で無言のまま深く頭を下げ、その引き際を静かに見送った。
しかし、感傷に浸る時間は一瞬だった。
「剛毅様……!」
黒鉄兵が血の気の引いた声で剛毅の背中に呼びかけた。
「源次郎殿の最期の言葉……『天霧軍は、すでに四方から進軍している』というのは……」
剛毅は、西の空から鳴動谷の奥へと吹き抜ける谷風をじっと肌で受け止め、拳を強く握りしめた。
自分たちがここで必死に黒川源次郎を討ち果たしている間に、天霧の本隊は、宮嶋や坂本の守る防衛線の「弱点」を突くべく、すでに全方位からの同時進軍を開始していたのだ。
本陣が黒煙の視覚的恐怖に大動揺する中、西の最果てで勝利した剛毅の胸には、天霧玄馬という天才の恐るべき真の全貌が、冷たい戦慄と共に突きつけられていた。
歴史の歯車が、一気に激しく、そして残酷に回り始めようとしていた。




