第24章「裏切らぬ猛将」
天霧軍の先鋒を退けた夜。
月光の国の本陣では、昼間の狂気が嘘のような、ささやかな宴だった。
パチパチと爆ぜる篝火の周りで兵たちが勝どきを上げる中、慈恩と秀綱は盃を傾けながら、ある男を待っていた。
ずしん、ずしんと大地を揺らす足音が近づき、兵たちが歓声を上げた。
「見事でしたぞ、剛毅様!」
「最強の武はやはり剛毅様です!」
宮嶋と坂本の兵たちが熱狂して声を上げる。
「がははは!そうよ、わしがひと振りすれば道が開き、ふた振りすれば敵は塵となるわい!」
兵たちに囲まれ、これ以上ないほど良い気分で饒舌になりながら、篝火の光を遮って現れたのは、身の丈六尺五寸の巨躯を持つ男。
寺下家の当主、寺下剛毅――たけしの先祖である。
剛毅は二人の間に座ると、盆ほどもある巨大な漆塗りの椀を差し出した。
「二人とも、わしの武勇の噂はすでに届いておろう!さあ、ついでくれ!」
「ああ」
秀綱が盃を弄びながら、不敵な笑みを浮かべて喉を鳴らした。
「戦果も、被害もな」
「……ん?」
大椀を掲げたまま、剛毅の動きがピタリと止まる。
「被害とはなんじゃ?わしは北の大橋で敵を完璧に叩き潰したぞ」
「だからその大橋だよ」
秀綱が呆れたように鼻で笑い、顎をしゃくった。
「お前が興奮して大橋の土台まで粉々に叩き壊したろ。おかげでうちの隊が帰れなくなって、川を遠回りして泳ぐ羽目になったんだよ」
「ま、まさか……わしはただ、敵を仕留めようと……」
剛毅の大きな顔が焦りで引きつっていく。
そこへ、慈恩が冷ややかな手つきで大椀に酒をドボドボと注ぎながら、容赦なく畳みかけた。
「そのおかげで、我が工匠たちが、この夜中に総出で、橋の修理をさせられている。見事だったぞ」
「ぬ、ぬぅ……軍略のつもりじゃった……!」
剛毅が髭を震わせながら言い張るが、その狼狽ぶりは隠しようもない。
慈恩と秀綱は、そんな剛毅の顔を見て、同時に我慢しきれず吹き出した。
「かっかっかっ!軍略なわけねえだろ!」
「相変わらず、お前が動いた後の始末が一番命懸けだな」
三人は顔を見合わせ、どっと声を揃えて笑い合った。
兵たちの間からも爆笑が沸き起こり、本陣の空気は一気に温かい熱気に包まれた。
剛毅はバツが悪そうに髭を拭いながら、ふいと宴の隅へと視線を向けた。
そこには、大人たちの輪から少し離れて並ぶ千早と鈴音の姿があった。
鈴音が小さな手で千早の擦り傷に薬を塗り、千早が痛そうに顔を顰めながらも微笑み合っている。
「千早に鈴音か。……すっかり板についておるわい」
剛毅は目を細めた。
「今のわしにゃあ、あのような水面を滑るような動きはできん。図体ばかり大きくなってな……。あやつらの流れるような身のこなしが、羨ましくもあるわい」
「心配するな、お主はこの国の猛将よ」
慈恩が涼しい顔で酒をあおる。
「そうじゃろう!慈恩殿は分かってくれるな!」
「ああ、まさに天災だな」
秀綱がニヤリと笑って盃を突き出した。
「がはは!『天才』と来たか!秀綱殿も身に染みたか、わしの武功が!」
「ああ、雷、いや嵐か……」
秀綱が即座に鼻で笑う。
「……その通りだな。まるで地割れか土砂崩れにあったようだ……」
慈恩が淡々と言葉を重ねた。
「……まさか天災?!…そっちか!!」
剛毅の豪快なツッコミに、本陣の全員がどっと吹き出した。
「――なあ、慈恩殿」
剛毅が不意に大椀を置き、ぎらりと真剣な目を向けた。
地声が周囲のガヤを圧して響く。
「千早坊主のあの刀の捌き、身のこなしはかなりの逸材じゃ。千早が十八になったらわしの『黒鉄衆』にどうだ?」
「黒鉄衆に?あいつ次第だが、お主の軍はなかろう」
慈恩の言葉が即座に飛んだ。
「……だめか?なぜじゃ!」
秀綱が膝を叩いて大笑いしながら、剛毅の顔を覗き込んだ。
「剛毅、鈴音が猛反対するかもな?あいつ、千早と私はひとつだって顔して戦ってたぜ」
「ぬ、ぬぐぐ……っ!」
秀綱の指摘が図星だったのか、あるいは、将来の二人の姿が脳裏をよぎったのか。
「ええい、うるさい、うるさい!欲しいと言ったら欲しいんじゃ!千早坊主はわしのところに!」
剛毅は大きな腕を振り回し、まるで子供のように駄々をこね始めた。
「かっかっかっ!泣き落としかよ剛毅!」
「往生際が悪いぞ、剛毅」
秀綱が腹を抱えて笑い、慈恩が呆れたように盃を運ぶ。
最後はまた三人で、そして兵たちも一緒になって豪快に笑い合い、本陣の空気は一気に跳ね上がった。
たけしは、自分の大きな手と剛毅の丸太のような腕を見比べた。
「信じられない。あんな人が仲間を捨てるわけがない」
その瞳には、自分の先祖に対する強い誇りが宿っていた。
「我らが支え合っている限り、月光の国は盤石だ」
慈恩が篝火を見つめながら、静かに、しかし確信を込めて言った。
「ああ。俺たちが泥を被って戦った後は、あの若え奴らが、もっと綺麗な世を継いでくれるさ」
秀綱が頷き、剛毅もまた、空になった大椀を夜空へ向けて力強く掲げた。
「うむ!この命と、金砕棒が折れぬ限り、天霧の奴らにこの国は一歩も渡さんわい!」
三人の誓いは揺るぎないものに見えた。
しかし、篝火の光すら届かない冷たい闇の奥で、国の命運を分けるもう一つの「戦い」が始まっていた。
――城の最下層、地下水路。
そこは地上の賑やかさとは隔絶された、冷たく淀んだ暗黒の世界。
闇の壁に同化するように、宮嶋家の隠密・藤原が潜んでいた。
「……頭。来ました。報告通り、鼠たちが」
闇から滲み出るように現れた配下の囁きに、藤原は声を出さず、ただ静かに頷いた。
視線の先、地下水路の奥には、敵の特殊工作部隊――「夜霧衆」の姿があった。
彼らが運び込んでいるのは、敵軍が誇る特製の大樽。
中身は最凶の黒色火薬『黒雷』。
正門の下から『石垣』を爆破する狙いだ。
その先頭で指図を出す天霧玄馬の影、夜霧の横顔に、藤原の目が鋭く細められた。
「急げ。酒に溺れている間に、正門ごと消し飛ばす」
夜霧の冷え切った声が水路に響く。
「……指揮官は奴か」
夜霧の配下が、導火線に火種を近づけようとしたその瞬間。
「――その火遊び、高くつくぞ」
ヒッ!!
一切の音もなく「濡れた縄」が工作兵の手首に巻き付いた。
「なっ!?」
藤原が闇から跳躍し、空中でこぼれ落ちた火種を弾く。
ボッ!!
『不知火』
油を吸った縄が、紅蓮の導火線となって走り、手首ごと火種を飲み込み――あろうことか、彼らが抱える「予備の火薬樽」へと吸い込まれていく。
「……チッ」
夜霧の判断は、早かった。
彼は警告を発するどころか、隣にいた部下の背中を、無造作に蹴り飛ばしたのだ。
「がっ!?頭領……!?」
突き飛ばされた部下が、火を噴く樽に覆いかぶさる。
夜霧は、その「肉の盾」を足場にし、まるでこうなることを予期していたかのような反応速度で、後方の闇へと跳躍した。
ズドォォォォォンッ!!!
水路が強烈な閃光に包まれた。
爆炎は盾とされた部下を粉砕し、もうもうと立ち込める黒煙の中から、煤だらけの影がゆらりと立ち上がる。
夜霧だ。
その目は、爬虫類のように冷たく、どこか楽しげですらあった。
「……油塗りの縄か。古臭い手を使う」
夜霧が、煤を払いもせずに闇を見据える。
そこへ、藤原が音もなく姿を現した。
「人を盾にするその性根……吐き気がするな」
「……貴様、宮嶋の狗か」
二人の視線が交錯する。
それ以上は語らない。
だが、その一瞬の沈黙には、他人には踏み込めないドス黒い空気が渦巻いていた。
夜霧の手が、瞬きする間に背中の刀へ伸びる。
だが、藤原の方が一手早かった。藤原が足元の煙玉を踏み砕く。
「……続きは地獄でやろう。今は、客人を迎える準備がある」
白煙が視界を奪うと同時に、彼はその場を離脱していた。
「逃げたか……」
夜霧は追わなかった。いや、追えなかった。
この爆発音で、地上の両軍も目を覚ましてしまったからだ。
『黒雷作戦』は失敗。
これにより天霧軍は、慈恩たちが待ち受ける正面突破を選ばざるを得なくなったのである。
遠くの地下水路から響いた爆音と、その後に届いた悲報。
だが、天霧軍総大将・天霧玄馬は、眉一つ動かさず、冷ややかにその報告を聞いていた。
「……なるほど」
玄馬は、手元の軍略図の上に、ゆっくりと黒い駒を置いた。
「……慈恩……貴様との知恵比べはこうでなくてはな」
玄馬の口元が、わずかに吊り上がる。
これから始まる力比べを楽しんでいるかのような、冷酷な笑みだった。
黒い駒が、地図の上でカツリと不気味な音を立てた。




