第23章「夕暮れの約束」
戦闘が一段落し、敵軍が一時撤退を始めた頃。
水鏡隊の面々は、戦場を見渡せる小高い丘の上に集結していた。
夕日が彼らの青鈍色の装束と、そこに染み付いた泥と血を静かに赤く照らし出している。
勝どきを上げる本陣とは対照的に、丘の上には重苦しい沈黙が漂っていた。
「……皆、聞いてくれ」
隊長の静流が、いつもの気だるげな調子とは違う、静かで、しかし芯の通った低い声を上げた。
彼は集まった四十七名の顔をゆっくりと見渡した後、視線を足元の草むらに落とした。
そこには、白い布を掛けられた一人の隊員――与助が静かに横たわっている。
「……与助が、還らぬ人となった」
その名は、風に乗って隊員たちの間を静かに駆け巡った。
すすり泣く声が漏れる。
与助は、一番小柄で、そして唯一、言葉を持たぬ少年だった。
「……あいつは、俺が焼け落ちた村の跡で拾ったんだ」
静流が、遠い日を見るように静かに語り始めた。
その佇まいには、激しい感情に溺れぬ隊長としての毅然とした品格があった。
「戦火で喉を焼かれ、家族も、声も失って……煤だらけになりながら、一人で草笛を吹いていた。その音が、戦場には不釣り合いなほど澄んでいてな……俺は思わず足を止めた。あいつは言葉を話せなかったが、代わりに誰よりも良い耳を持っていたんだ。風の音で天気を読み、鳥の声で伏兵を知る。だから俺はあいつに、この木彫りの笛を渡したんだ」
静流は懐から、血で赤黒く染まった小さな木彫りの笛を取り出した。
愛おしげに親指でそっと撫でる。
「あいつはいつも、声が出せない代わりに、この笛を吹いて俺たちに危険を知らせていた。鋭い笛の音が聞こえれば、それが敵襲の合図だった。皆も、あいつの笛の音に何度も命を救われたはずだ」
静流の声は低く、どこまでも穏やかだった。
だが、その奥には消えない切なさと、深い悔恨が滲んでいた。
「だが……あいつが死んだあの瞬間、手元にこの木彫りの笛がなかったんだ。何かの拍子に落としたのか、それとも……」
静流は唇を噛み締め、語気を強めることなく、静かに言葉を紡ぐ。
「笛を吹けなかったあいつは、音もなく走り出し、狙われた仲間の前に飛び出して、その身で矢を受け止めるしかなかったんだ。せめて一吹きできれば、自分が飛び出さずとも仲間を巻き込まずに済んだかもしれないのにな。最期まで、悲鳴ひとつ上げず、静かに逝きやがった」
静流はゆっくりと息を吸い込むと、その血塗られた木彫りの笛を、自分の唇へとそっと当てた。
ピィ――――――……。
沈黙する夕闇の丘に、一筋の澄んだ音色が響き渡った。
決して上手な演奏ではない。
かすれて、震えて、それでもどこまでも真っ直ぐに、夕空の向こうへと溶けていくような音色だった。
静流は笛を唇から離すと、溢れそうになる涙を堪え、遠い空を見つめてぽつりと言った。
「……聞こえてるはずだ。あいつなら。どんなに遠くへ行ったって、俺の吹くこの下手くそな音を、いつものように笑って聴いているさ」
静流の瞳から、一筋の雫がこぼれ落ち、乾いた土に吸い込まれていった。
常に冷静沈着な「水鏡」の隊長が見せた、初めての涙、そして静かな感傷のひとときだった。
だが、静流はすぐにその涙を袖で拭うと、再び凛とした佇まいで隊員たちの前に立ち上がった。
その背中は、悲しみに暮れる若者たちを導く、絶対的な統率者のものだった。
「その涙が乾いたら、武具を磨け。傷を手当てしろ。……俺たちは『水』だ。どれだけ悲しみが混ざろうとも、明日にはまた清らかに流れなきゃならない。それが、生き残った俺たちの務めだ」
日は完全に沈ろうとしていた。
隊員たちは黙々と、ある者は与助の埋葬の準備を、ある者は互いの傷の手当てを始めた。
死を悼みながらも、生きて戦うための営みは止まらない。
その喧騒から少し離れた丘の端で、千早と鈴音は並んで座り込んでいた。
与助の死は、二人に「死」という現実を冷酷に突きつけていた。
「……怪我はないか、鈴音」
千早が不器用に問いかける。
彼は、さとるによく似た、理知的で優しげな顔立ちをしていたが、その横顔には隠しきれない疲労と、仲間を守りきれなかった恐怖が滲んでいた。
「ええ。千早こそ、腕から血が……。痛くないわけないでしょう」
鈴音は自分の着物の袖を優しく裂くと、千早の傷口を慣れた手つきで、いたわるように縛った。
「……無茶をするなと言っただろう。静流さんを困らせて……与助のように……お前まで失ったら、僕は……」
千早の声が震えた。
鈴音は包帯を結ぶ手を止め、そっと千早の震える手に自分の手を重ねた。
鈴音の瞳には、千早を責める色などは微塵もなく、ただどこまでも深い優しさと包容力が満ちていた。
「千早、自分を責めないで。与助は『守れなかった』んじゃないわ。あの子は自分の意志で、大切な仲間を……私たちを守ってくれたの。あの子の誇りを、悲しいだけのものにしないで」
鈴音は千早の手をぎゅっと優しく握りしめた。
千早の背負う重荷を、半分引き受けるかのような温かさだった。
「私は死なないわ。……だって、私の背中には千早がいるから。私もずっと側で支えてる、だから大丈夫」
その優しい言葉に、千早ははっとして鈴音を見た。
仲間の死の悲しみを包み込み、そっと前を向かせてくれる少女の温かさ。
現代のさつきは、息を呑んで二人の姿を見つめていた。
大切な人の痛みに寄り添い、優しく、しかし誰よりも強い意志で支えようとする鈴音の姿。
それが、さつき自身の心の奥底にある、さとるを支えたいという静かな想いと心地よく共鳴していた。
「……ありがとう、鈴音」
千早は、自分の手を握る鈴音の手を、そっと握り返した。
そして、涙を堪えて遠くの空を睨んだ。
「敵の本隊は、こんなものじゃない。……父上たちは、もっと過酷な戦いを予期している。僕たちも、もっと強くならなければ」
「ええ、分かってる」
鈴音は、千早の肩にそっと額を預けた。
千早を一人にしないように、その温もりを伝えるように。
「千早がいるから。あなたが隣にいてくれるなら、私はどんな地獄でも戦える。……だから、絶対に死なないで。約束よ」
「……ああ。約束する」
千早は力強く頷いた。
「この戦が終わったら……伝えたいことがあるんだ」
その言葉の先を、彼は口にしなかった。
今言えば、それが「遺言」になってしまいそうで怖かったのかもしれない。
あるいは、平和な世でなければ口にしてはいけない言葉だと、自らを律していたのかもしれない。
現代のさとるは、固く握った拳をそっと緩め、千早の横顔をじっと見つめていた。
言葉にはならずとも、そこにある確かな「信頼」と「約束」の形が、さとるの胸を熱く満たしていく。
さつきもまた、もどかしさの奥にある愛おしさに胸を詰まらせ、二人の後ろ姿を見つめていた。
「……戻ろう。静流さんたちが待っている」
千早が立ち上がる。
鈴音はその背中を、そっと見守るような優しい目で見つめてから、隣に並んで歩き出した。
二人の若き影が、長く伸びて重なり合う。
――その影が、やがて来る混沌の中で永遠に一つになる運命を、この時の夕日はただ静かに、優しく照らしていた。




