第21章「最強の矛盾」
「――おーい、慈恩!相変わらず辛気臭い仕事してんじゃねえぞ!」
湿った泥沼のような戦場の空気を、一陣の熱風が激しく切り裂いた。
敵軍の側面、切り立った崖の上から、目に痛いほどの朱色の旗印が鮮烈に翻る。
それを見上げた慈恩は、フッと厳しい口元を緩めた。
「……遅いぞ。待ちくたびれたわ」
崖の上に立っていたのは、岩のように重厚な慈恩とは対照的に、柳のように痩身でありながら、全身からカミソリのような鋭い闘気を放つ武将だった。
坂本家の当主、坂本秀綱――さつきの先祖である。
彼は顔を覆っていた派手な鬼の面を無造作に脱ぎ捨てると、狂気的な笑みを浮かべて叫んだ。
「待たせたな!坂本軍・赤鬼隊、推して参る!!」
秀綱が二刀流の剣を抜き放ち、崖の上から真っ逆さまに駆け下りる。
それに続くのは、血の色の甲冑に身を包んだ者たちだ。
彼らには、宮嶋軍のような統制された統一感は一切ない。
ある者は鬼の角を生やした兜を被り、ある者は虎の毛皮を羽織り、またある者は顔に不気味な隈取を施している。盾など端から持たず、防御を捨て去った狂戦士たち。
「おらおら!こっちだ、天霧の泥棒猫ども!坂本の赤鬼が相手してやるぜぇ!」
「おい、もっと派手に声を張れ!宮嶋の頑固親父どもに矢が流れたら、首を撥ねられるぞ!」
彼らは哄笑を上げながら、乾いた草地を焼き尽くす山火事のような速度で、天霧軍の陣形へと突撃した。
その異様な風体と、耳を聾するような奇声は、戦場を一瞬で支配した。
人間ではなく、山の化け物に襲われているかのような錯覚。
一見、無軌道な暴走に見えるその突撃は、敵の戦意を根底からへし折るために計算し尽くされた、彼らなりの「心理戦」だった。
「秀綱!計画より四半刻も遅れているぞ!」
慈恩が盾の隙間から、怒鳴り声を上げる。
その声には、明らかな安堵が混じっていた。
「うるせえ!計画通りにいかねえから面白いんだろうが!全員、俺より先に死ぬなよ!綺麗に散らかせぇ!!」
秀綱を先頭にした鋭利な三角形の「楔陣形」が、宮嶋軍の鉄壁に釘付けにされていた敵の無防備な横腹へと深く突き刺さる。
坂本軍の持つ特殊な十文字槍が、すれ違いざまに敵の騎馬の脚を容易く薙ぎ払い、背負った野太刀が鎧の隙間を容赦なく切り裂いていく。
極限まで軽量化された装備から繰り出される、神速の突撃。
宮嶋軍が敵を絡めとる「泥沼」ならば、坂本軍はそこを真っ二つに裂く「稲妻」だった。
「ひ、ひぃぃ!なんだこいつら、速すぎる!」
「赤鬼だ、食われるぞ!」
宮嶋の壁に阻まれ、坂本の牙に噛みつかれた天霧軍は、一転して恐慌状態に陥り、ついには総崩れとなって撤退を始めた。
「深追いは無用だ!追い払えばよい!城壁の射程外まで押し返せば十分だ!」
慈恩が冷静に制止の号令をかける。
だが、赤備えの兵たちは逃げる敵の背中を、嬉々として追い回して止まらない。
「おい秀綱!聞いているのか!これ以上の突出は無用だと言っている!」
慈恩の怒号に対し、秀綱は敵将を斬り捨てた刀を血振いしながら、困ったように肩をすくめた。
「そう青筋立てるなよ」
秀綱は、まだ戦場で狂乱している自軍の兵たちを顎でしゃくってみせる。
「見ての通り、ウチは『兵隊』じゃなくて、『獣』の集まりでな。言うことを聞く利口な奴なんざ、片手で数えるほどしかいねえんだよ」
彼はニヤリと笑い、刀を鞘に収めた。
「悪いが、気が済むまでもう少し暴れさせてやってくれ。尻拭いは俺がするさ」
前線から引き揚げてきた赤鬼隊の兵たちが、大盾を抱えて汗を拭う宮嶋軍の職人兵たちの前を通り過ぎた。
「よぉ、宮嶋の。いい壁だったぜ。おかげで後ろから綺麗に突っ込めたわ」
隈取を施した坂本の兵が、ニカッと白い歯を見せて笑う。
「ふん、お前らが遅いから、こっちの矢倉が一本ミシッといったわ」
宮嶋の古参兵がぶっきらぼうに返す。
「まあ、そう言うなよ」
――四半刻前、赤鬼隊は乾いた大地の砂埃を巻き上げ、宮嶋軍の待つ戦場へと朱色の波となって急進していた。
先頭を駆ける秀綱が、不意に馬の手綱を引く。
鋭い眼光が捉えたのは、峠の山頂にそびえる天霧軍の狼煙台だった。
本隊への援軍合図を送るための要衝。
それを見つめた秀綱の脳裏に、閃きが走る。
敵の援軍を呼ばれ圧倒的な数で攻められたら、月光軍に甚大な被害がでる。
『おい、裏の死角から回り込むぞ。音を立てるな』
秀綱の低い指示に、荒くれどもが野生の獣のように気配を消した。
崖の斜面を声もなく這い上がり、油断しきっていた天霧の狼煙番たちを瞬く間に組み伏せ、声を上げる暇すら与えずに乗っ取る。
秀綱は捕らえた職人の胸ぐらを掴み、牙を剥いてニヤリと笑った。
『火薬の調合を変え、青い煙を出せ。……しくじったら首を撥ねる』
一部の部下をその場に残し、秀綱率いる本隊は再び馬に鞭をあて、宮嶋軍の戦場へと急いだ。
だが、走れど走れど、背後の空に煙は上がらない。
『チッ、あいつら何やってやがる……!』
馬上の秀綱の眉間に、わずかな焦りの色が走る。
戦場が間近に迫り、激しい怒号と爆音の地鳴りが耳に届き始めた、まさにその直前だった。
背後の峠から、一筋の煙が天を突いた。
天霧の突撃を告げる赤ではない。
鮮烈な、月光の国の『青』。
その偽りの青い煙を見た天霧の本隊は、前線の戦局は圧倒的に優勢であると判断し、後方からの援軍を出さなかった。
敵の本隊をその場に釘付けにし、この戦場を先鋒二千だけとの戦いに限定させたのだ。
慈恩は、ふっと息を漏らし、誰に言うでもなく、ぼそりと呟いた。
「……まったく。」
規律こそないが、命の懸け方が誰よりも一途なのだ。
一度火がついた彼らを止められないことも、慈恩は長年の付き合いで理解していた。
「……仕方あるまい。好きにさせろ。だが、深入りだけはさせるなよ」
慈恩は空を見上げ、太陽の位置を確認してから、釘を刺すように続ける。
「夕刻までには完全に退かせるんだ。夜闇に紛れて伏兵に遭えば、その自慢の派手な赤備えも、格好の的だ」
「おう!晩飯の時間までには戻るさ!」
秀綱はニッと笑うと、再び愛馬を駆り、戦場の彼方へと消えていった。
「貴様のところは、将も兵も手が焼ける」
慈恩はそう悪態をつきながらも、その表情はどこか深く安堵していた。
「…良かった……」
さつきは、戦場を駆ける秀綱と赤鬼隊の姿が、彼女の魂の奥底にある「何か」を激しく揺さぶっていた。
彼らは野蛮なんかじゃない。
ただ暴走しているわけでもない。
盾も持たず、一番危険な最前線を、あんなにド派手な赤色を纏って走っているのは――敵の憎悪と牙を、すべて自分たちの一身に引き受けるためだ。
後ろにいる宮嶋の兵たちを、そしてこの国の人々を、誰一人として死なせないための、あまりにも過激で、あまりにも不器用な「慈愛」の形。
「……なんだか、胸が凄く熱くなる。私の血が、騒いでるのが分かる」
さつきは涙を拭い、誇らしげに戦場を見つめた。
自分の脈打つ鼓動が、戦場を駆ける蹄の音と、仲間を守るために叫ぶ彼らの声と、完璧に重なるのを感じていた。
戦況は決着した。
宮嶋軍という絶対的な「盾」の前で、坂本軍という「矛」が敵を粉砕し、完全に追い払ったのだ。
「静」と「動」、「拒絶」と「突破」。
全く正反対の性質を持つ二つの軍勢が、互いの弱点を補い合い、一つの巨大な生き物のように敵を圧倒していく。
「これが、古文書の言う因縁の敵同士だって?嘘だろ……」
さとるは、慈恩と秀綱の背中に、自分たちが理想とする「信頼」の本当の形を見た。
お互いのやり方を認め合い、背中を預け合う二人の姿。
「なんだよ……『最強の矛盾』じゃねえか」




