第19章「真実の光」
夏休み最後の週末。
さとる、さつき、たけし、めい、そして藤原の五人は再び、あのすべての因縁の始まりであり、間もなく消滅を迎える祖先ゆかりの地へと降り立っていた。
解体工事が本格化する直前の森は、以前訪れた時よりもさらに不気味なほどに静まり返り、夏の終わりを告げる鳥のさえずりさえ一切聞こえない。
生い茂る木々の葉の一枚すら動かず、まるで世界そのものが、彼らの到着を固さに息を飲んで見守っているかのようだった。
いつもなら軽装で、どんな怪異を前にしても涼しい顔を崩さなかった藤原が、今日は明らかに違っていた。
彼は自らの背丈ほどもありそうな、使い込まれた巨大な登山用のリュックを背負い、端正な額には玉のような大粒の汗を浮かべている。
薄暗い冷気が足元から這い上がる『たましひのいづみ』のほとりに着くと、彼はリュックを泥塗れの地面にどさりと下ろし、肩で荒い息を何度も整えてから、真剣な眼差しで四人に向き直った。
その青白い表情には、かつて学校で見せていたような飄々とした嘘の笑顔は、もう微塵もなかった。
「……前回来た時、みなさんはこの泉で最悪な地獄の光景を見ました。仲間を殺し、主君が逃げ去る姿。あれは、確かにこの地で起きてしまった『事実』です。どれほど目を背けたくとも、変えることのできない歴史の傷跡です」
藤原の重苦しい言葉に、たけしは奥歯が軋むほどに唇を噛み締め、めいは静かに伏せ目がちに視線を落とした。
あの凄惨な過去視のトラウマは、今もなお彼らの心に深く冷たい楔として刻まれている。
「ですが、『事実』という表層の裏には必ず、これまで誰も知ることのなかった、隠された『真実』があります」
藤原は、自らに言い聞かせるように力強く言葉を続けた。
「あなた方は今、その最悪な絶望を理解し、自分の血の重さを受け止め、それでもなお『真実が知りたい』と願って、自らの足でここに立っている。お互いを傷つけ合うためではなく、守るためにここにいる。……だからこそ、何百年もの間、誰も試すことすらできなかった最後の賭けに出ることができるんです」
藤原は震える手でリュックの底を探り、何重にも厳重に古い布で包まれた、黒ずんだ桐の箱を恭しく取り出した。
「僕の藤原家が代々、宮嶋家の密命を受けて、命に代えて守り続けてきた品々があります。今日、この泉のほとりでそれを使うことで、僕の血族もようやく、長すぎた影の役目を果たすことができる……はずです」
「はず……って、確証はないのか?」
さとるが訝しげに眉をひそめ、藤原の横顔を睨んだ。
「文献には『四家集いて、品を供えし時、扉は開かれん』としか書かれていないんです。ただ物を置けばいいのか、あるいは特別な呪文が必要なのか、扉が開いた後に何が起こるのか、僕にも全ては分からない。もしかしたら、前回の地獄よりも、もっと酷い絶望の記憶を見るかもしれない。……それでも、覚悟はいいですか?」
藤原の問いかけに、さとるは隣に立つさつきの横顔を見た。
さつきは一点の迷いもない澄んだ瞳で、静かに、深く頷き返した。
たけしもまた、ポケットの中で拳をミシミシと音を立てて握り締めて頷き、めいもまた、顔を上げて藤原を真っ直ぐに見据えた。
「……開けて。藤原くん。私たちはそのためにここに来たのよ」
めいが凛とした声で促し、藤原は息を呑んでゆっくりと桐の箱の蓋を開けた。
中には、古びた絹の布に大切に包まれた、四つの古めかしい品々が静かに収められていた。
藤原は祈るような手つきでそれらを一つずつ丁寧に取り出し、泉のほとりに佇む、苔むした石板の表面へと目を向けた。
今まで気づかなかったが、その冷たい石の表面には、長い年月の風化に耐えた四つの家紋の「窪み」が、確かに刻まれていた。
藤原はその歪な窪みへと、慎重に四つの鍵を配置していった。
村上家の『月を象った純白の絹布』――それは数百年を経ても色褪せない、主君としての気高さと、民への清らかな祈りの象徴。
寺下家の『重厚な鉄製の礎石の欠片』――それはどんな戦火にあっても国を支え、主を守り抜く揺るぎない忠誠の象徴。
宮嶋家の『燻された羅針盤のガラス片』――それは暗闇の中でも常に進むべき未来を示し、迷いなき道を選ぶ叡智の象徴。
坂本家の『研ぎ澄まされた片刃の小太刀』――それは刃を外に向け、愛する者を守るためなら自らを盾とする慈愛と武勇の象徴。
「これらが、僕の家に伝わる四家の『家宝』であり、隠された真実へと至る扉の鍵です」
すべての配置を終えた藤原は、弾かれたように石板から両手を離し、一歩後ろへと下がった。
四人の胸が、破裂しそうなほどの高鳴りをあげる。
これで、ようやく本当のことが分かる。
自分たちを苛み、引き裂こうとしてきた、あの不条理な痛みの本当の意味が、ようやく解き明かされるのだと、誰もが固唾を飲んで水面を見つめた。
しかし、数秒、数十秒が経過しても、静寂が破られることはなかった。
光を拒絶して黒く淀んだ泉の水面はピクリとも動かず、四つの家宝を乗せた石板も、ただ冷たく沈黙したままだった。
「……嘘だろ」
たけしの掠れた声が、困惑と焦燥に震える。
「なんでだよ……。おい、何も起きねえぞ!俺たち、全員覚悟決めてここまで来たんだぞ!何かやり方が間違ってんじゃねえのかよ!」
藤原もまた、初めて見る明らかな焦りの色を顔に浮かべ、石板を凝視していた。
「まさか……まだ、何かが足りないというのか……?道具も、血筋も、すべて揃っているはずなのに……」
期待が大きかった分、反動として押し寄せる絶望の泥沼は、あまりにも重かった。
せっかく見出した、呪いを終わらせるための希望の光が、音もなく霧のように消えていく。
自分たちは、やはりあの血塗られた醜い歴史の因縁から、永劫に逃れることはできないのだろうか。
冷たい、諦めにも似た沈黙が、彼らの心を再び深く覆い尽くそうとした、その時だった。
――「……消える」
めいの口から、鈴が鳴るような、けれど世界の終わりを予感させるほどに寂しい声が漏れた。
彼女は震える手で、何も応じない石板の冷たさを確かめるようにそっと触れ、それから周囲の鬱蒼と生い茂る真夏の森を、愛おしそうに見渡した。
「もうすぐ、この森も、私たちの先祖が守ろうとしたあの石垣も、この泉も……全部、土とコンクリートの下に埋まって、無かったことにされてしまう」
めいの瞳には、目の前にある現在の風景ではなく、これから訪れる決定的な「無」の光景が映し出されているようだった。
その彼女が抱く圧倒的な喪失感と、土地への悲痛な愛着が、目に見えない波紋となって周囲の空気を震わせていく。
「ねえ、みんな分かる?私たちが今まで怯えていた痛みなんて、この土地の最期の悲鳴に比べたら、些細なことよ」
めいは胸元の服を、皮膚が破れるほどに強く握りしめた。
「悔しい……。このままじゃ、私たちの先祖は、最悪な汚名を着せられたまま、その存在した証拠さえも、ダムの瓦礫と一緒に無残に捨てられてしまう。歴史から完全に消されてしまうのよ」
「そんなの……あんまりだわ。ひどすぎるよ……」
さつきの声が重なり、めいの瞳から、我慢しきれなくなった大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちて、石板の家紋を濡らした。
それは死の怪異への恐怖の涙ではない。
守るべき土地と、愛すべき歴史のすべてを奪われようとしている、主君としての誇り高き慟哭だった。
「……ふざけるなよ。そんな最悪な結末、俺が絶対に認めねえぞ」
めいの慟哭に真っ先に魂を突き動かされたのは、たけしだった。
彼は衝動に駆られるようにして、石板の上に置かれた寺下家の家宝である『鉄の礎石』へと手を伸ばした。
壊れやすい美術品としてではなく、かつて主君を命がけで支えた宿老の血が叫ぶままに、その冷たい鉄の塊を、すがりつくように強く鷲掴みにした。
ジュッ……!!
その瞬間、冷たいはずの鉄から肉体を焼くような凄まじい衝撃が放たれ、たけしの背中を一気に駆け上がった。
「ぐあぁっ……!づ、うぅ……!?」
たけしが身体を大きく反らし、獣のような声で呻く。
(いてえ……冷たい鉄の塊のはずなのに、なんだこれ、背中が……まるで溶岩を流し込まれたみたいに熱ぃ……!)
あまりの激痛に視界が真っ赤に染まり、大量の脂汗を流しながらも、たけしは目の前で涙を流して泣き崩れている村上めいの姿だけを、じっと見つめていた。
その瞬間、彼の脳裏から恐怖は消え去っていた。
(――こいつを、絶対に俺が守ってやる。汚名なんかで終わらせてたまるか)
「うおぉぉ……俺だって、あんな歴史認めねえ!守りたいんだ、助けてやりたいんだよぉぉ!!」
たけしは背中を焼く激痛に真っ向から抗い、大地に根を張る仁王のように両足で踏ん張って、天に向かって咆哮した。
すると、彼の強い願いに応呼するように、『鉄の礎石』から、まるで溶鉱炉の蓋を力任せに開けたかのような、眩い紅蓮の光が爆発的に噴き出し、たけしの巨躯を優しく包み込んだ。
ドクン、と同時に、さとるの「右手」がこれまでになく激しく脈を打ち始めた。
たけしの剥き出しの「願い」と、めいの「慟哭」の痛みが、繋がった回路を通って、さとるの右手のひらへと一気に流れ込んでくる。
「うぅ……っ!」
あまりの情報の奔流と痛みの負荷に耐えかね、さとるはその場にドサリと膝をついた。
その身体が地面に倒れ伏すより早く、さつきが猛然と駆け寄り、彼の震える右手を、自らの両手で包み込むようにして強く、優しく抱きしめた。
――絶対に、離さない。
何百年も前に名も知らぬ先祖たちが交わした、けれど今、自らの肉体を通して確かに感じる「誰か」と「誰か」の、時を越えた温もりが、二人の手のひらの間で確かに融和していく。
「……ここで終わらせちゃいけない。私たちの代で、未来へ繋がないといけないの」
さつきの瞳が、涙で潤みながらも、夕闇を撥ね退けるほどの強い慈愛の光を放つ。
四人の想いが、歴史の憎悪という理屈を全て置き去りにした場所で、一つの巨大な意志へと溶け合っていく。
「これが……トリガーなのか……?こんなの、分かるはずもなかった……」
藤原は、目の前で起きている奇跡に圧倒され、呆然と呟いた。
「最後の鍵は、古い術式でも、隠密の道具でもない……。彼ら四人の魂が、絶望を受け入れた上で、数百年越しに他者を想って『共鳴』することだったなんて……!」
影として生きてきた藤原の論理思考を遥かに超えて、石板から放たれる光はその輝きを増していく。
めいはゆっくりと、自らの足で大地を踏みしめて立ち上がった。
溢れる大粒の涙を拭おうともせず、四人の中心で、沈黙していた石板に向かって魂の底から叫んだ。
それは、現代を生きる一人の少女の叫びであり、同時に、かつてこの閉ざされた美しい国を愛し、生きたすべての魂たちの代弁だった。
「答えてよ!お願いだから、私たちに本当のことを答えて!もし私たちが、古い記録の言う通り本当に憎しみ合うためだけの呪われた存在だったなら、なんでこの森は、こんなに優しくて美しいの!?なんで私の心は今、自分の命なんかより、みんなを全力で守りたいって、こんなに優しく叫んでるのよ!」
めいの気高い叫びは、数百年前にこの地で無念の死を遂げた、数多の魂たちの祈りと重なった。
「お願い……最期にせめて、本当のことを教えて!私たちがこの地で共に生きて、誰かを愛した証を……冷たい水底の闇に、そのまま葬らせたりしないで!!」
主君としての、悲痛で気高い祈りと共に、『純白の絹布』から、強烈な光が解き放たれた。
「き……聞こえる……カグラ様……」
めいが何かを呟いた、その瞬間だった。
――カッ!!
石板の中心から、世界そのものを爆発させるかのような、目が眩むほどのまばゆい光が放たれた。
「うわーっ!?」
四つの家宝が共鳴し、五人の身体を貫いて、激しい光の柱となって夏の夜空へと真っ直ぐに天を衝いた。
それは前回見せつけられた、あの業火のような禍々しい赤黒い炎ではない。
曇り一つない、どこまでも透き通った、優しく、そして力強い「月光」のような、神聖な青白い輝きだった。
「これが……真実の光……!」
藤原が歓喜と驚愕に叫ぶ声が、遠ざかっていく。
青白い月光の柱は五人の身体を優しく包み込み、その意識を、再び遥か昔のあの戦場――いや、「あの日」の歴史の本当の瞬間へと、暖かく連れ去っていった。
視界が真っ白に染まる中、彼らは全身の細胞で確かに感じていた。
そこに横たわっているのは、自分たちを苛んできた、あの忌まわしい痛みなどではない。
――もっと温かく、もっと切実で、魂が震えるような、圧倒的な「愛」の奔流だった。




