第17章「負ける強さ」
蒸し暑い熱帯夜だった。
都市の熱気が、たけしの苛立ちを加速させる。
彼はコンビニで買った水を一気に飲み干し、空になったペットボトルをゴミ箱に投げ入れた。
彼の脳裏からあの日の事が離れない。
「次から次へと味方を……。笑えねえな」
やり場のない怒りを抱え、繁華街の人混みを歩いていた時だった。
ドンッ。
横合いから、千鳥足の若い二人組がぶつかってきた。
金髪にピアス、二十代くらいの男たちだ。酒の臭いが鼻をつく。
男の手から缶チューハイが落ち、たけしのスニーカーにぶちまけられた。
「あぁ!?……ってえな、どこ見て歩いてんだデカブツ!」
ぶつかってきた方の男が、顔を赤くして怒鳴り散らす。
もう一人も、ニヤニヤしながらスマホをいじり、面白そうに加勢する。
「おいおい、謝れよ。俺らの酒がこぼれちまっただろ?」
どう見ても、フラフラと歩いてきた彼らの方から突っ込んできた。完全なる言いがかりだ。
「……あんたらが突っ込んできたんだろ」
たけしが低い声で返す。
180センチ超えのたけしを見上げ、男たちが一瞬怯む。
だが、自分たちが二人であることと、酒の勢いもあって、男はさらに図に乗った。
「なんだその目つきはぁ?身体がでかいからって調子乗ってんじゃねえぞ」
「こういう奴に限って、ロクな親に育てられてねえんだよなぁ。親の顔が見てみてえよ」
ドクン。
心臓が嫌な音を立てた。
親……。
たけしの脳裏に、先日の光景がフラッシュバックする。
(……ああ、そうだな……)
男の言葉は、ただの悪口だったはずだ。
だが、今のたけしにとって、それは最も触れられたくない古傷を抉られるような一撃だった。
たけしが動揺し、言葉に詰まる。
「なんだ、図星かよ!土下座して謝れ!」
調子に乗った男が、たけしの頬を狙って平手打ちを放ってくる。
不意打ちの暴力。だが、たけしの目にはスローモーションのように映った。
スッ。
たけしは表情一つ変えず、半歩だけ頭を引いた。
男の手が、鼻先数ミリの空気を切り裂く。
「おっと!」
勢いあまった男が、無様にバランスを崩してよろめく。
「てめぇ……!避けやがったな!」
煮えくり返るような怒りが湧く。
こんな理不尽な連中に、なぜ俺が見下されなきゃならない。
隙だらけだ。顎を撃ち抜いて、二度と減らず口を叩けなくしてやるか?
本能がそう叫ぶ。
拳に力がこもる。
(……待て)
もし今、俺がこいつらに手を出せば……その衝撃、感触、そして俺自身が受ける痛み……すべてがあいつらに。さとるに。さつきに。そして、村上に。
たけしは、ギリギリで拳を止めた。
そして、震える手をポケットに深く突っ込んだ。
「……悪かったよ」
たけしは、地面の汚れを睨みつけながら、絞り出すように言った。
「俺の前方不注意だ。悪かった」
「あぁ?声が小さいんだよ!」
たけしは深く頭を下げた。屈辱で全身が震えた。
たけしは、怒りを必死にこらえ、「負ける」ことを選んだ。
「……ちっ。でかい図体して情けねえ奴だな」
「行くぞ。時間の無駄だ」
男たちは鼻を鳴らし、捨て台詞を吐いて去っていった。
喧騒の中に、たけし一人だけが取り残される。
プライドはずたずただった。
自分が正しいのに、頭を下げるしかない。
何故こんな想いをしなければならないのか。
たけしは情けなさで立ち上がれず、近くのガードレールに腰を下ろした。
夜風は冷たいはずなのに、ふと背中の芯が、何かに反応するように妙に熱く疼いていた。
「……災難だったわね」
不意に、横合いから凛とした声が聞こえた。
ハッとして顔を上げると、めいが立っていた。
夜の闇の中でも白く発光するような、圧倒的な存在感。
「村上……。なんで、ここに」
「なんでって……私たち近所に住んでることも知らなかったの?人だかりができてたから、何かなって」
最悪だ。
一番見られたくない相手に、一番情けない姿を見られた。
たけしは舌打ちをして、立ち上がった。
「笑いたきゃ笑えよ。……俺は腰抜けだ」
めいは無言で近づいてくると、たけしの目の前で立ち止まった。
その瞳は、真っ直ぐにたけしを射抜いていた。
そこには軽蔑の色など微塵もなかった。
あるのは、事実を冷静に分析する、理知的な光だけ。
「……よく言うわ」
めいは呆れたように、けれど確信を込めて言った。
「相手が怖かったんじゃない。私たちに『痛み』を送らないために、頭を下げたんでしょう?」
図星だった。
誰にも言えなかった葛藤を、彼女はあっさりと見抜いた。
「勘違いしないで。私は野蛮な暴力は大嫌い。……でもね」
めいは、たけしのポケットに入ったままの拳の上から、そっと自分の手を重ねた。
「自分のプライドを捨ててでも、仲間を守るために頭を下げる。……その『我慢』は、誰かを殴り飛ばすより、ずっと難しくて、ずっと強いわ」
「……っ」
それは、甘やかすような慰めではなかった。
けれど、たけしが一番欲しかった「男としての矜持」を、真正面から肯定する言葉だった。
胸の奥で燻っていたドロドロとした屈辱が、彼女の言葉で洗い流されていくのが分かった。
たけしはバツが悪そうに視線を逸らし、鼻をこすった。
「……へっ。生意気なんだよ、お前は」
「褒め言葉として受け取っておく」
めいは小さく微笑むと、踵を返した。
「……宮嶋くんと連絡をとったわ」
「お父さんに確認してもらったの。あの集落の解体工事、八月の下旬から始まるって」
「八月下旬……来月じゃねえか」
「そう。時間がない。それまでに私たちが真実を見つけ出さないと、あの場所は永遠に消えてしまう」
めいは、立ち上がり歩き出した。
「だから、こんなところでいじけてる暇はないの」
めいの背中には、細いながらも決して折れない、一本の芯が通った強さを感じさせた。
その背中を見つめながら、たけしは拳を握り直した。
裏切り者の汚名はまだ消えない。
けれど、自分の弱さを「強さ」だと言ってくれた、この気高い彼女のためになら。泥を被るのも、悪くないかもしれない。
「……たく、しょうがねえな」
たけしは小さく呟くと、少しだけ軽くなった足取りで、彼女の後を追った。




