第16章「確定した絶望」
泉のほとりに立った四人は、黒く淀んだ水面を見つめていた。
「ここに……全部あるんだな」
たけしが唾を飲み込む音が、静寂の中で大きく響く。
ふと、さとるは周囲の深い森へと視線を巡らせた。
鬱蒼とした木々が風にざわめくだけで、人の気配はない。
(……いないのか)
藤原りょうのことだ。
運命が動く瞬間には必ずどこからともなく現れた。だから今回も、この木陰のどこかで涼しい顔をして立っているのではないか――そんな予感があったのだ。
さとるは微かな不安と共に覚悟を決め、正面に向き直った。
「行こう。確かめるんだ」
さとるの合図で、四人は震える手を伸ばし、苔むした冷たい石板に同時に触れた。
その瞬間。
――ドクンッ!!
四人の心臓が、破裂しそうなほど大きく跳ねた。
視界が歪み、世界が反転する。
平衡感覚が失われ、魂ごとどこか別の次元へ吸い込まれていくような強烈な浮遊感。
「うわあぁぁぁっ!?」
「きゃぁっ!」
悲鳴と共に目を開けた彼らの前に広がっていたのは、現在の静かな森ではなかった。
鼻をつくのは、鉄の錆びた臭いと、肉が焦げる不快な悪臭。耳を劈くのは、轟音と怒号、そして絶え間ない悲鳴。
そこは、業火に包まれた「地獄」だった。
「な、なんだよこれ……!ここはどこだ!?」
たけしが叫ぶ。
目の前には、見るも無残に崩れ落ちた石垣と、燃え盛る城郭。
足元には無数の骸が転がり、土はどす黒い血で泥のようにぬかるんでいる。
『裏切り者め!どこへ行く気だー!!』
怒声と共に、たけしの目の前で一人の武士が、立ち塞がる味方を背後から斬り伏せた。
「ひぃぃ……!」
その斬りかかった武士が掲げていた旗指物。
ボロボロになった布に描かれていたのは、間違いなく寺下家の家紋だった。
武士は守るべき門を自らこじ開けると、雪崩れ込んでくる敵兵の波には目もくれず、ただ一目散に闇夜へと走り去っていく。
「嘘だろ……待てよ!逃げるのか!?」
たけしは必死に手を伸ばすが、その手は武士の体をすり抜けた。
「俺の先祖は……裏切り者なんかじゃねえ!なんでだよ!なんで味方を殺して逃げるんだよ!!」
目の前で繰り広げられる「事実」。
信じてきた誇りが、音を立てて崩れ去る。
たけしは頭を抱え、その場に崩れ落ちた。
視界が切り替わる。
――燃え落ちる本丸の広場。
そこでは、二つの部隊が、敵軍が迫る中でもなお、醜い同士討ちを続けていた。
『おのれ宮嶋!お前こそが元凶だ!』
『黙れ坂本!邪魔をするなら斬り捨てるまでだ!』
「嘘……。やめて、やめてー!!」
さつきが悲鳴を上げる。
宮嶋と坂本。
本来なら手を取り合って国を守るべき二つの家が、互いに刀を向け合い、憎しみに歪んだ顔で殺し合っている。
その周囲では、城を守る兵たちが次々と敵軍に倒され、城が崩れ落ちているというのに、二人はそれに見向きもしない。
「あ……あ……」
さとるは、言葉を失った。呼吸ができない。
古文書に書かれていた通りだ。
俺たちの先祖は、国を守るどころか、自分たちのプライドのために国を滅ぼしたのだ。
「これが……俺たちの血なのか……?こんな、こんな愚かな……!」
さとるの胸に、焼きごてを当てられたような激痛が走る。
これは「共鳴」ではない。
自分の中に流れる血そのものが、罪の重さに悲鳴を上げているのだ。
そして、視界はさらに高く、城の最上部へと移る。
――そこには、一人の美しい女性が立っていた。
十二単を乱し、宝飾品を抱えたその女性は、眼下に広がる地獄絵図を一瞥し、冷たく言い放った。
『愚かな者ども。私はここを捨てる。この命と美しさを、お前たちと散らすには惜しい』
めいが息を呑む。
その女性は、隠し扉を開き、必死に助けを求める家臣たちの声を無視して、暗闇へと姿を消した。
「……おばあちゃんの言った通りだ……」
めいの目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「民を見捨てて……本当に、自分だけ逃げたんだ……!」
『呪われよ!村上!寺下!宮嶋!坂本!貴様らの血が続く限り、この怨念は決して消えぬ!!』
燃え盛る城の中で、死にゆく誰かの呪詛が、四人の鼓膜を直接殴りつけた。
――プツン。
唐突に、視界が途切れた。
四人の意識は、乱暴に現代の泉のほとりへと弾き出された。
「はぁっ……はぁっ……!」
全員が地面に膝をつき、肩で息をする。全身から脂汗が噴き出し、震えが止まらない。
目の前には、何も変わらない、朽ちかけた石板と、黒く淀んだ水があるだけだ。
「まさか……本当に、俺たちの先祖が……」
たけしが虚ろな声で呟く。地面を叩く拳には、もう力が入らない。
「全部、本当だったんだ。俺たちは、裏切り者の子孫だったんだ……」
さつきは、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
「こんな……こんなひどいことが……。私たちが感じてた痛みは、この人たちの……」
「……ああ。罪の報いだ」
さとるは、絶望に染まった瞳で空を見上げた。
「僕たちは、呪われて当然の血を引いている。……何も、変わらなかった。知れば知るほど、救いなんてなかったんだ」
重苦しい沈黙が、夕闇と共に四人を包み込む。
希望を持って訪れたこの場所で、彼らが手にしたのは「確定した絶望」だけだった。
「……もう、日が暮れてきたわ」
めいが、感情の抜け落ちた声で言った。
「このままじゃ、山道で迷って帰れなくなる。……今日はもう、戻りましょう」
誰も、互いの顔を見ることができなかった。かける言葉も見つからなかった。
めいが力なく歩き出し、三人がふらつく足取りでそれに続く。
背後では、黒く淀んだ泉が、まるで彼らの絶望を飲み込んで満足したかのように、静かに波紋を広げていた。
――そして、彼らが立ち去った後の静寂の中。
木々の深い陰から、一人の少年が音もなく姿を現した。
彼は去りゆく四人の背中を無表情に見つめ、泉に向かって深く一礼した。
「……絶望を知らなければ、真の共鳴は生まれませんから」
その呟きは、森の闇に溶け込み、誰の耳にも届くことはなかった。




