第14章「庇う右手」
夏休みまで、あと一週間。
期末試験を終えた校舎にはどこか浮ついた空気が漂っていたが、五時限目の開始を告げるチャイムが鳴ると、体育館には男子生徒たちの野太い掛け声と、畳を叩く重い音が響き渡った。
この日の体育館の種目は柔道。
さとるにとっては、お世辞にも好きとは言えない時間だった。
突き指や捻挫、あるいは脱臼。
そうしたコンタクトスポーツに付きまとうあらゆる負傷のリスクは、高校野球のエースとして、極力避けたいというのが本音だったからだ。
「今日こそは絶対に投げ飛ばしてやるからな、宮嶋!」
対峙するなり、鼻息を荒くして柔道着の襟を掴んできたのは、クラスでも一際体格の良い柔道部員の同級生だった。
彼は以前の授業の乱取りの際、さとるにあっさりと投げられたことをよほど根に持っているらしく、並々ならぬリベンジの炎を燃やしていた。
(……はぁ……俺はただ、無駄な怪我をしたくないだけなんだけどな)
さとるは内心で小さく溜息をつきながらも、無理に力で抗おうとはせず、自然体のまま柔らかく構えた。
ユニフォームを脱いださとるの体躯は、一見すると線が細く、大柄な相手のパワーに容易く押し潰されそうに見える。
だが、クラスの男子たちは経験上よく知っていた。
この一見優男風の男が、見た目によらず驚くほど芯が強く、そして格闘技の専門家顔負けに妙に「上手い」ことを。
「うおおっ!」
相手が力任せに前襟を掴み、体重を乗せた強引な大外刈りを仕掛けてくる。
まともにその圧力を受け止めれば、体格差でそのまま畳に押し潰される場面だ。
だが、さとるの思考は至って冷静だった。
相手の重心のブレを凝視する。
人間は、力が入れば入るほど、その瞬間のバランスを崩しやすくなる。
さとるは相手の猛烈な突進にあえて逆らわず、ふわりと自らの重心を沈めた。
次の瞬間、相手の突進する勢いをそのまま自分の背中へと吸い込むようにして、滑らかに軸足をクルリと回転させる。
トンッ。
柔道部員の巨体が、まるで重さを失ったかのように軽い音を立てて、宙を舞い、畳の上へと転がった。
「……まじかよ。また宮嶋が勝った」
「この前の勝ちはまぐれなんかじゃない……あいつ本物だ」
周囲で見守っていた生徒たちの間からどよめきが沸き起こる。
投げられた当の本人は、天井を仰いだまま何が起きたのか分からないといった風に呆然としていた。
さとるは、手を貸して彼を引き起こし、それから自身の右手の掌をそっと見つめた。(別に、特別なことをしているわけじゃない。向かってくる力をそのまま受け流した方が、俺の指への負担が一番少ないからな)
それは彼にとって、自らの生命線である野球のバットやボールを握る指先を死守するための、極めて合理的で冷徹な防衛本能の現れだった。
――放課後。
梅雨明けが発表されたばかりの空は高く、湿った生暖かい風が、グラウンドの乾いた土埃を激しく巻き上げていた。
野球部の全体練習の最中、バッターボックスからバックネットを大きく越えて、誰もいない校舎裏へと消えていくファウルボールが飛んだ。
「ボール拾ってきます!」
ちょうど給水用のスクイズボトルを置いて休憩に入るところだったさとるは、小走りでフェンスの出入り口を抜け、グラウンドの外へと向かった。
夕日に照らされた校舎脇の植え込み。
その青々とした葉の隙間に挟まっていた白い硬球を拾い上げる。
指先で付着した黒い土を払っていると、不意に、すぐ近くから優しく弾むような声がかけられた。
「さとる!」
美術室の勝手口から出てきたばかりのさつきが、夕闇の中にパッと花が咲いたような弾ける笑顔を浮かべて近づいてきた。
その手にはスケッチブックが握られている。
「お疲れ様。ボール拾い?」
「……ああ。さつきさんも部活?」
「うん。夏休みの合宿の準備がちょっとあってね。……ねえ、もうすぐだね。四人で、ちゃんと調べに行ける」
さつきは嬉しそうに駆け寄ると、周りの目を気にするように少しだけ顔を近づけてきた。
夏の風に揺れる彼女の髪から、微かに絵の具の匂いが漂う。
さとるを真っ直ぐに見つめるその瞳には、一点の曇りもない純粋な信頼が宿っていた。
「私、信じてるから。さとると一緒にいれば、きっと大丈夫だっていうこと」
その一切の疑いを持たない無邪気な信頼の言葉が、さとるの胸の奥を甘酸っぱく、そして鋭く締め付けた。
古文書の文字が、再び胸の奥でチリチリと音を立て始める。
「さとる!あぶねえっ!!」
グラウンドの向こうから、誰かの叫び声が響いた。
直前に聞こえた、カーンという甲高い金属バットの打撃音。
さとるが弾かれたように見上げると、防球フェンスを遥か高く飛び越えた白球が、強い向かい風に押し流されながら、ぐんぐんと不規則な軌道で伸びてくるのが見えた。
『危ない!』
言葉になるより早く、さとるの身体が動いていた。
さつきの細い肩を庇うようにして自らの前に引き寄せ、その頭上に容赦なく落下してくる硬い革の塊に対して、反射的に右手を差し出した。
グラブなどはめていない、生身の手のひらだった。
バシッ。
肉と革が激突する、鈍く乾いた捕球音が響く。
さとるの右手が、凄まじい勢いのボールの回転を、その掌の中で完全に抑え込んでいた。
(……また、右手かよ)
捕球の衝撃でジンジンと痺れる手のひらを見つめながら、さとるは心の中で激しく悪態をついた。
エースとしての商売道具である利き手。
しかも素手で行うには、リスクが高すぎる無謀な行為だ。
授業の柔道であれほど徹底していたはずの「指先を守るための合理性」など、彼女を前にした瞬間、一欠片も機能しなかった。
なぜか、自分でも制御できない領域で、この右手ばかりが、彼女のために酷使される気がしてならなかった。
「うっ……!」
同時に、さとるの身体に庇われたはずのさつきが、小さく胸元を押さえて呻き声を上げた。
さとるが驚いて顔を覗き込む。
「さつきさん、大丈夫!?」
「ご、ごめん……。大丈夫、ちょっとビックリしただけだから」
さつきはみるみるうちにその顔を蒼白にしていきながらも、さとるを安心させるように、無理に口元を歪めて笑顔を作った。
彼女には、ボールが直撃したわけではない。
しかし、さとるの右手に走った激しい衝撃と、その裏にある鋭い痛みの残響が、共有された因縁の回路を通って、そのまま彼女の身体へと流れ込んでいたのだ。
だが、さつきはそれ以上、その事実を口にはしなかった。
「さとる、その手……大丈夫なの?エースなのに、そんな無茶して……」
「ああ、平気だ。大したことない」
さとるもまた、自らの右手に走るジンジンとした熱を隠すように、掴んだボールを軽く握り直した。
互いが互いの痛みを配慮し、あえて何事もなかったかのように平静を装う。
そうして嘘でもいいから普通に振る舞わなければ、二人の間に横たわる何かが、今すぐ音を立てて壊れてしまいそうな、不気味な予感がしたからだ。
「……ありがとう、さとる。……無理しないでね」
さつきに頭を下げられ、さとるはグラウンドへと戻るために背を向けた。
しかし、その足取りは重かった。
彼の両肩には、もはや論理的な説明のつかない「血の因縁」の重みが、ずっしりと鉛のように残されていた。
グラウンドに戻り、ボールを強く握り直す。
白い粉が夕日にきらきらと舞う中で、さとるは打席を見つめた。
その瞬間、視界の裏に、あの蔵の暗がりで読んだ古文書の醜悪な文字が鮮烈に浮かび上がった。
『宮嶋と坂本は、数世代にわたって骨肉の争いを繰り広げた不倶戴天の敵』
あの日、絶望に震える自分に、さつきは電話越しで「私はそうは思わない。温かい、祈りみたいな感覚がする」と、その記述を笑い飛ばしてくれた。
彼女の持つその圧倒的な強さと優しさに、自分がどれほど救われたか分からない。
けれど、さとるの脳のどこか冷徹な論理思考は、まだその「慈愛」の直感を、完全には信じきれずにいた。
(もし、あの最悪な記録の通り、俺たちの血筋が本当に憎しみ合うためのものだったら?俺のこの流れる血が、いつか彼女を決定的に傷つけるための凶器だとしたら……)
その拭いきれない迷いが、指先の繊細な感覚を微かに狂わせる。
自分が握ろうとしている白球が、まるで彼女に牙を向く凶器のように思えてきて、胸が詰まる。
それでも、さっき頭上から落ちてくる弾道を見た瞬間、理屈を全て置き去りにして身体が彼女を庇い、右手を突き出していたのもまた、紛れもない事実だった。
(確かめなければならない。彼女の言う直感が正しいのか、それとも、あの絶望的な歴史の記述が真真なのか)
もうすぐやってくる、すべてのルーツを探るための夏休み。
それはさとるにとって、ただの因縁の調査ではない。
自らの内に滾る、この「どうしても理屈を超えて彼女を守ろうとしてしまう、コントロールできない想い」に決定的な決着をつけるための、逃げ場のないグラウンドに向かうようなものだった。




