万延元年遣米使節
1860年、日米修好通商条約批准のため日本からの使節団が出発する事になる。
日本側使節は外国奉行から新見正興、村垣範正の2人が、目付として小栗忠順が任命されてポーハタン号に乗船してアメリカに向かう事になった。
また軍艦奉行の水野忠徳の提案でオランダに発注された咸臨丸が護衛として同行する事になり司令官として木村喜毅を任命、乗務員は勝海舟をはじめ海軍伝習所のメンバーを中心に任命、通訳として渡米経験のあるジョン万次郎が任命された。
また後に脱亜論を唱える福沢諭吉も同行する事になる。
また座礁したクーパー号の乗務員のアメリカ海軍のブルック大尉達の乗艦を要請し乗艦してもらう事になる。
日本人船員達からは反対の声が大きかったが幕府のこの判断はのちに咸臨丸を救う事になる。
使節団は2月9日品川沖でポーハタン号に乗船、2月13日にサンフランシスコに向けて出港した。
途中太平洋で嵐に遭遇、この時咸臨丸の日本人乗組員は慌てふためいたり船酔いになったりと使い物にならずアメリカ人船員達がいなければ危ないところであった。
途中嵐と遭遇するトラブルで石炭を使いすぎてしまったため一行は石炭補給のため3月4日ハワイ王国ホノルルに寄港する。
ここで再び日本とハワイ王国の運命が繋がる事になる。
ホノルルでは日本人使節団はカメハメハ4世と会見、会見した際に一向はカメハメハ4世からある提案を受ける事になる。
日本人のハワイ移民についての提案だった。
この当時本来であればアメリカなどからの移民がやって来て労働力問題が解決されるはずであったがそのアメリカは南北戦争に突入、南北ともに総動員体制を築くべく移民など送り出してる場合ではなく小規模な物になってしまっていた。
そこでたまたまではあるがアメリカとの条約批准のためにやって来た日本に移民の依頼、及び将来的な通商を求める事になった。
これは嵐に遭遇して石炭を消耗しすぎたからという理由ではあるがたまたま寄港したのとかつて約250年ほど前に日本人達が数回ではあるが交易のためにハワイにやって来ていた事も影響していた。
伝承レベルではあるが遠い東の国の人たちがもたらした技術、そして今の英米仏と比べた時かなり好意的に接して貰ったという記録があり、今の日本人達と友好的に接してもらうきっかけにはなった。
日本側としても将来的な移民は国内の不穏分子を海外開発など名目はなんでもいいにしも送り出せるメリットは通商にしても欧米列強と通商を行うついでではあるが多少のメリットはあると感じその場で承諾することとなり日布条約として締結される事になる。
この条約も国内においては勅許問題として荒れる事になるが……………
ハワイ訪問後はサンフランシスコに向けて出港、3月18日に到着する事になる。
サンフランシスコでは咸臨丸の修復を行いつつ現地の人々と交流を行いパナマに向かった。
パナマでは当時開業していたパナマ地峡鉄道にて大西洋側に移動、イギリス船舶にて移動を開始する。
一行はアメリカ連合国を訪問、連合国においては具体的通商交渉は行わなかった物の思想の違いなどによって内戦の危機が訪れる事を使節団に感じさせる事になる。
その後ワシントンを訪問しブキャナン大統領と批准書を交換、合衆国側各地を見学することとなる。
合衆国においては進んだ工業化、その工業力を国家同士の総力戦に注ぎ込もうとする姿、介入しようとする欧州各国の情勢などを見聞し一向は日本への帰国の途につく事になる。
また訪問したニューヨークにおいては当時世界最大の客船グレードイースタンを目撃、日本人達は国力、技術力の差を体感する事になる。
その後アメリカを出発し11月9日使節団は品川沖に帰還する事になる。
またこの訪問の中で金銀交換比率の交渉が行われる物のアメリカ側に押し切られる形となり日本の金の方が下がる事になる。
幕府は使節の帰還を待たずに金貨の新規製造を行うがこれがのちにインフレを巻き起こす事になるのはまた別の話
そして数年後には使節団が危惧した内戦が日本にも訪れる事になる。




