尊皇攘夷
まず尊皇攘夷とはである。
尊皇攘夷とは古代中国春秋時代に生まれた王を尊び夷を払うという意味の言葉である。
この幕末の時代においては尊皇、つまりは天皇陛下を尊び攘夷、外国勢力を討ち払うという思想である。
尊皇攘夷という言葉が出て来たのは水戸学の生まれた地水戸藩の弘道館の文書が最初と言われている。
幕末においてはゴローニン事件やファートン号事件の様な当時交易していたオランダ、清王朝、李氏朝鮮を除いた外交勢力との接触が増え国内において外国勢力への反発が増え国内を守るべしという思想が広まった事で尊皇攘夷思想が芽生え始めた。
ここで再びの阿部正弘である。
かつて老中首座としてペリー艦隊が江戸湾にやって来た時に上から下まで広く意見を求めていた。
この意見を求めた際に各藩でこの尊皇攘夷思想が広く広まる事になる。
和親条約締結までは異国船打払令に則って異国船を打ち払っていたのが今度は受け入れらとなっても受け入れらる人々と受け入れられない人々が存在するのは至極当然の話でありそう言った不満が爆発したのがある意味では安政の大獄化で発生した桜田門外ノ変とも言えるだろう。
この時の幕府は弾圧に回っていた時の典型例だろう。
後に幕府は和宮降下による公武合体によって権威を取り戻そうとするも公武合体派と尊皇攘夷派で対立する事になる。
和宮降下により権威を修復かと思いきや坂下門にて直弼亡き後老中首座に就任した安藤信正が襲撃される事で失脚、対立が深まる事になる。
この時雄藩と呼ばれる各藩も力をつけようと奔走、薩摩藩が兵を率いて上洛を行おうともしている。
攘夷派は攘夷派で馬関にて長州藩が外国船を砲撃して報復をされたり生麦にて外国領事を切った薩摩藩が報復にイギリスに砲撃されて薩摩VS英国の戦争になったりと外国との関係も危うくなりつつあった。
京都においては薩摩が会津と結託し長州藩を失脚させていた。
この政変により参与会議が構成される物の失敗、のちに討幕派が形成されてゆく事になる。
この時期の国内は上記にもある通り荒れに荒れており攘夷派は海外と戦を行い、京都においては天誅と称して様々な人間が暗殺されたりとで幕府はハワイに移民を送り出す余裕がなくなりせっかく出来た縁も交易という形で細々となってしまっていた。
本格的な移民は維新後に持ち越しとなって行く。
これらの中で京都で結成された壬生浪士組、後の新撰組が危険因子を打ち取り続け特に長州藩の志士達が討ち取られてく事になる。
その中で長州藩は藩兵を連れて上洛するも武力衝突に発展、御所に砲撃などを行った事で朝敵と見做されてしまう。
長州藩が幕府より討伐の対象となり第一次幕長戦争が勃発、長州藩は降伏をし、攘夷派の粛清を進めて行く事になる。




