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波濤の王冠 カラカウアの遺産  作者: ゆうき
カラカウア王の提案
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討幕

第一次幕長戦争で降伏条件を受諾し降伏した長州藩であったが高杉晋作が挙兵、萩城を攻撃し恭順派に染まった藩論を一気に討幕派に傾ける事になる。


そう言った中で今度はイギリスから兵庫開港を巡って圧力が加わり兵庫沖に艦隊が集結、幕論は再び勅許派か否かで荒れる事になるも今回はなんとか朝廷から勅許を得ることに成功する物の幕府の権威弱体化は完全に明らかとなる。


こう言った中で薩摩藩は幕府への反抗を強めていく事になる。

薩摩藩はアーネストサトウらの助言に従い長州藩に接近、坂本龍馬の仲裁の元薩長同盟が締結される事になる。

そして本当に奇跡的な偶然ではあるが薩長同盟締結の翌日、1866年3月8日幕府による長州討伐を発令7月に開戦するも薩摩との連携により西洋式軍備を整えた長州藩の前に幕府は完敗、そう言った中で8月将軍家茂が死去、徳川慶喜が宗家を相続し一旦は親征の意志を見せる物の一転して和睦に傾き広島にて停戦協定を締結、第二次幕長戦争は終結する事になる。

そして翌年慶喜は征夷大将軍に就任、家茂の弔い合戦として長州征伐を宣言、慶喜を信用していた孝明天皇も長州征伐に反対する公卿らの処分を行ったが天然痘のために死去、2月13日に睦仁親王が践祚することとなった。


その後松平春嶽、山内容堂、島津久光、伊達宗徳らのメンバーで四侯会議を開催するも慶喜の政治力が上回ったこととメンバーの団結を欠いたこともあり実質的に無力化されてしまう。

そんな中慶喜主導で慶応の改革が進められ幕府の息が吹き返し始めていた。

ただそれをよく思わない勢力も存在し、薩摩藩、長州藩は武力による討幕を考えていたため幕府が息を吹き返すかとは思わしくなかった。

特に改革の中で幕府軍はフランス式の軍備を、海軍も榎本武揚を中心に整備が進んでいたためこれ以上体制を整えられると困ってしまうのだった。

但し土佐藩は武力による討幕には反対で慶喜に自発的政権の返上を建白、国内での武力衝突を防ごうと奔走していた。

後に薩土盟約として薩摩、土佐は足並みを揃えようとするが武力討幕に拘る薩摩藩の意向もあり土佐の山内容堂単独での建白になる。

その流れと同時に岩倉具視らは朝廷の中で暗躍、討幕の勅許を得るもそれと同時に慶喜が京二条城にて政権の返上、大政奉還を決定幕府の施政権は残る物の政権自体は朝廷に返還される事になる。

それと同時に新政府側も王政復古の大号令を発し幕府の廃止などを決定した。

慶喜は征夷大将軍の官職の返納も申し出るもその申し出は一旦保留とし大阪に退去、大阪城にて待機する事になる。

これに対し大久保利通などは慶喜に領地の返還などを求める強硬策を取る物の松平春嶽などが大反対し骨抜きにされてしまう。

それに対し西郷隆盛などの薩摩藩は武力討幕に固執、江戸にて浪士を集め騒乱を起こし、幕府側も報復として薩摩藩邸の焼き討ちを行う。

薩摩藩邸焼き討ちを聞いた大阪の幕軍は奮起し打薩表を掲げ進軍を開始、鳥羽伏見にて衝突する事になる。


数年前にアメリカを訪れた使節団が最も恐れていた国内での衝突が発生してしまう事になる。

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