南北戦争勃発
米墨戦争、第三次セミノルー戦争の勝利、諸外国の領土の購入、オレゴン国境紛争の解決によって領土を拡張しついに太平洋に到達したアメリカであったが国内では様々な問題が噴出しかけていた。
米墨戦争は史実よりも1、2年ほど長期化しメキシコ軍の頑強な抵抗により戦死者も増大していた。
国内では戦死者の増大で不満が高まりはしたが新領土の獲得、閉ざされた国日本を開国させたとしてなんとか不満を逸らそうとしていた。
というよりも米国政府としては逸れて欲しがっていた。
アメリカ国内では戦死者の増大からくる厭戦感情の高まりの他にも奴隷制をめぐる問題で対立が深まっていた。
1846年デイビットウィルモットが下院に提出したウィルモット条項(メキシコから獲得した領土において奴隷制を禁ずる法律)が下院で可決されたものの南部の奴隷制擁護派が多い上院では否決され、国内では大いに論争が起こることになる。
南部からすれば奴隷制維持派が減り議会バランスが崩れて北部の開放派に傾いてしまう恐れすらあった。
今の時代では到底許されない事ではあるが当時の奴隷制は個人の資産であり、綿花プランテーション維持には欠かす事が出来ず、銀行のローンの担保にすらなる資産だった。
そして綿花販売の為には英国の自由貿易圏に属したいと願いがあった。
北部からすれば早期に工業化が進み自由労働の文化が根付き流動的労働力確保の為には奴隷制は相容れない制度であった。
貿易の考え方も保護貿易の考えが強くその点も相容れないものであった。
1850年には南北でなんとか妥協を行い一時的には国内の世論の反発を抑える事には成功するが根本的な解決には至らなかった。
沈黙は長くは続かず1854年にミズーリ協定を破棄しカンザス=ネブラスカ方が制定された事で北部の自由州の反発が激化、カンザス準州では流血を伴う対立が発生する。
1857年のトレドスコット判決は事実上の奴隷制拡大の容認と取られ北部の世論は激怒し南北間の緊張が最大限に拡大した。
この年には奴隷廃止論者ジョンブラウンによる武器庫襲撃が発生、南北間の対立がピークに達する。
1858年、これらの事象により奴隷廃止に傾くのではと恐怖したサウスカロライナが連邦離脱を宣言、ディープサウス各州がこの動きに追従、アメリカ連合国を結成、首都をモントゴメリーに、ジェーファーソンディヴィスを暫定大統領に指名した。
南軍は即座に動員を掛け北部のサムター砦を攻撃、ここに南北戦争の戦端が開かれた。
開戦初頭から合衆国軍は苦戦を重ねる事になる。
南軍はロバートリー将軍、ストンウォールジャクソン将軍の活躍で東部戦線においては北軍は南軍に押され続けかなりの劣勢を強いられる事になる。
この情勢を見た欧州諸国も南軍を承認しないまでも経済的取引を持つことを考え始める事になる。
綿花の取引をしつつ勢力が分割されアメリカが強大にならなければ何でもいいと考える英国、メキシコへの影響力を保持しつつ英国と共同したいと考えるフランス、キューバ防衛のために艦隊を派遣しつつアメリカの脅威が半減するならいいと考えるスペイン、カリブ海で貿易が出来るなら良いと考えるオランダ、技術攻略、軍事観察をしたいと考えるロシア、プロイセン、外交的に取り持つ事で影響力を持ちたいオーストリア、金になるなら海運、仲介なんでも来いのデンマークと欧州の思惑も絡みつつ泥沼化の勢いを見せ始める。
そして日本から万延元年遣米使節が派遣されるその年運命の男がアメリカ大統領選に立候補し当選する事となる。
エイブラハムリンカーン、史実では奴隷解放宣言を出す事になるこの人物は大統領選においては貧しい農家の出身であり北部の自由労働であれば国の最高指導者にもなれるという事、また南部の脱退反対、何としてもこの内戦を戦い抜くことを政策に掲げて戦況選を戦った。
自由州がほとんど残っている今の合衆国では自由労働の象徴のような立身出世を果たしたリンカーンは支持され大統領選に勝利、史上初の共和党政権を誕生させる事になる。
またリンカーンの当選によりアメリカは徹底抗戦路線を歩み更に血みどろの内戦を戦い抜く事になる。
そんな状況の中日米修好通商条約批准のため日本から万延元年遣米使節が訪米する事になる




