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安政の改革そして大獄へ

日本は黒船の来航により改革をする事となったが国内の動乱はより一層激しさを増してくる事となった。

まず阿部正弘が目指したのは砲術、洋式の軍事訓練を行う講武所の設置、後に咸臨丸でハワイ、アメリカに渡る勝海舟などを登用し海岸防禦御用掛の強化、洋楽研究のための蕃書調所、海軍士官育成のための長崎海軍伝習所の設置などの改革を行うことであった。1855年には首座を堀田正睦に譲るものの改革路線はなんとか継続するものの、将軍継嗣問題も表面化し一橋派、南紀派の争いも改革と並行し始まりつつあった。

これらの心労が祟り改革路線を推進していた阿部正弘が1857年に死亡してしまう。

1856年にはハリスが下田に来航、阿部正弘亡き後首座を引き継いだ堀田正睦がハリスと通商などに関し交渉を重ね1857年にはハリスが江戸城に登城の上国書を将軍家定に手渡しアメリカと通商条約を結ぶ理を説くと共に条約調印を迫った。

下田奉行とハリスの間で交渉が持たれ条約締結が決まった物の今度は朝廷から勅許を得るか否かで幕府が揺れることになる。

首座の堀田正睦は朝廷より勅許を得るべく京都に向かうも孝明天皇の強硬な反対により勅許を得ることに失敗、江戸に帰還することになる。

その後将軍家定に勅許を得ることに失敗した旨を報告、松平春嶽を大老にと献策をする物の退けられ、井伊直弼の大老就任が決定する。

井伊直弼が大老に就任した物の勅許問題は変わらず老中松平忠固は勅許を得ず即座に調印することを主張、大老直弼は勅許に拘り続けることになる。

しかしながら勅許を得ずとも已なき場合は条約調印可能と決定されて八景島沖に停泊しているポーハタン号で日米修好通商条約が締結される事になる。

但しこの条約は関税自主権が無く、領事裁判権の期待、片務的最恵国待遇を強いられる不平等条約であった。

ただこの時の日本人が問題にしたのはあくまでも勅許問題でありそれらの問題に気がつくのは明治の時代まで待たねばならなかった……

その後幕府は蘭、仏、英、魯とも同様の条約を締結することになる。



ここでまた一波乱が起こることになる。

大老井伊直弼が独断で南紀派が方が上がる紀州藩藩主の徳川家茂を家定の後継者と定める。

ただでさえ条約無勅許調印問題で荒れていた国内が一橋派と南紀派がさらに対立することとなり荒れも大荒れすることになる。


ここで井伊直弼はあらゆる手を使い一橋派や条約無勅許調印を責め立てる尊皇攘夷派の大弾圧を行うことになる。

一時的に国内に安定をもたらすことに成功するが1860年桜田門前にて大老井伊直弼が水戸藩士に暗殺されることで収束する事になる。


そして大老井伊直弼が暗殺される直前2月、日本からアメリカに修好通商条約の批准を行うべく使節団がアメリカに向けて出発する。

ここで今再び日本とハワイの運命が交差する事になる。

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