開国
老中阿部正弘は頭を悩ませていた。
来航したアメリカ艦隊のぺるり提督には一年待ってほしいとし、なんとか時間的猶予は得る事が出来た。
その間に品川台場が完成し、オランダに発注してる4隻艦艇と水戸藩に造船させている旭日丸、浦賀奉行に命じて造船させている鳳凰丸が揃えば勝利は出来ぬとも善戦出来るだけの戦力にはなるため、無理難題を吹っ掛けられることはないだろうと。
但し台場の完成も艦艇が揃うことも一年では現実的ではないことも分かってはいた。
そこで海防参与徳川斉昭、松平慶永、島津斉彬ら各大名を始め庶民に至るまで意見を求めた。
庶民や外様にまで意見を求めなければならないほど幕府が弱体化していることも嘆かわしいことではあるのだが……………
そうして対応を考えていたところに時の将軍家慶が亡くなりその対応に苦慮することにもなる。
ぺるり艦隊の来航でただでさえ荒れている国内である。将軍の死を即座に公表することで更なる混乱を招く事を防ぐために一時的に将軍の死を隠匿する事としたがいつまでも隠し切れるわけでないということも分かっていた。
そうこうしてるうちに今度はロシアのプチャーチン提督も来訪、更なる問題が増えてくことになる。
ぺるり艦隊、プチャーチン艦隊の対応に関しては強硬に攘夷を主張する勢力、改革を主張する勢力が入り乱れ結局なんの手立ても打つ事が出来ずただただ時間だけが過ぎ去っていった。
その間にもぺるり艦隊は再度アメリカをたち日本に向かっていた。
今回のぺるり艦隊は前回の規模を超える9隻で浦賀沖に現れ強硬に大統領親書への返信を求めてきた。
阿部正弘としては開国も已を得ないと考えていたが海防参与は強硬に攘夷を主張し続けており交渉も平行線、幕府内の意見統一も平行線を辿り続けていたが1ヶ月の交渉の後下田、函館の港を開港する事で決着する。
この時、日本語、英語において条文の内容が違い後々国際問題になるがこの時はまだ誰も知る由がなかった……
日米和親条約締結後今度はプチャーチン提督との交渉も待っていた。
プチャーチン提督が来訪し交渉を行っている最中に安政東海地震が発生、プチャーチン提督は艦艇修理を行う事を幕府に申請、戸田村にて修繕を行う事が許可される。
結局は修繕ではなく新造される事となるがこのヘダ号の新造は日本に洋式船の建造技術をもたらし、ヘダ号は国内において君沢型として量産されることになる。
ある程度情勢が落ち着いた際に交渉が再開され日露和親条約が締結される。
この条約内において幕府が早期から北方の実効支配を固めていたこともあり国境は千島列島シュムシュ島〜カムチャッカ半島間の千島海峡、樺太においては北緯50度より南は幕府領、北部は日露混在の地とされた。
その後同様に開港地を定めた日英、日蘭和親条約が締結されていくことになる。
この時条文に入っていた片務的最恵国待遇が今後の日本を苦しめていくことになる…………




