黒船来航
米墨戦争、第三次セミノルー戦争の長期化により疲弊していたアメリカではあるが戦死者の増大やマニフェストデスティニーの遅れを新しい市場の開拓を行うことで少しでも政権への批判を交わしつつ国内のガス抜きのために日本へジョンオーリック代将を司令として蒸気フリゲートサスケハナを旗艦に4隻の艦艇で日本を目指した。
途中オーリック代将が解任され史実通りマシューペリー代将が司令に任命され日本を目指した。
ペリー艦隊は史実通り大西洋を周り途中シンガポール、香港を経由して琉球、浦賀沖の航路を取ることになる。
途中琉球においてペリー艦隊は上陸を実施した。
琉球政府からは拒否をされたもののとりあえず琉球政府としても清政府の施設に出す料理よりも下位のものを出すことでアメリカによる武力占領は免れた。
もし琉球が反撃してしまっていれば運命が大きくずれた事だろう……
琉球来訪後ペリー艦隊は史実であれば父島などを経由したが今世においては経由せず浦賀おきに直行する事となる。
小笠原を経由しなかった理由は今となっては定かではないが米墨戦争の疲弊による物と言われている。
その後ペリー艦隊は浦賀沖に来航、当時の幕府を揺るがす大事件となる。
江戸幕府自体、ペリー艦隊が来航する事を知らなかった訳ではなかった。当時正式な外交関係を有していたオランダからの風説書きや琉球からの報告を受けた薩摩藩からの報告も上がっていたが今まで来校してきた異国船を穏便に済ませた事、オランダ風説書きも全てが事実ではなかった事などから三浦半島や江戸湾周辺の警備の藩兵を多少増やすことはしたが本格的な対策を取ることはなかった。
ただし、老中阿部正弘、薩摩藩主島津斉彬等の少数の人物たちは危機感を抱いていたが……
ペリー浦賀来航により揺れに揺れた幕府ではあったがとりあえず交渉を重ね一年の後再度開国問題について議論する事とし問題を先送りにすることには成功する。
但し、ペリー艦隊が帰還してからの動きは素早かった。
史実通り再度の来航に備えて品川沖に台場の建設を開始、オランダには咸臨丸、朝陽丸を発注する事となる。
そしてこの世界の幕府は早期から北方開拓をスタートさせ蝦夷地、久春古潭を天領化させていた事で史実よりは小早などの警備艦中心ではあるが艦隊を保有していたのをほんの少しだけ生まれた余裕を活かしてオランダに更に2隻のコルベットを発注する事となる。
それと同時に大船建造の禁を廃止、各藩に大型船の建造を急がせる事となる。
後にこの時に発注された2隻の艦艇は浦賀丸、三浦丸と呼称されることになる。




