新たな公債募集と軍再編
遼陽、沙河、旅順での勝利は日本全体をより勢いつける事に繋がった。
開戦時は海外市場から日本の勝利は疑いの目で見られていた物の鴨緑江、南山、遼陽、沙河、旅順と陸戦では順調に勝利を納め、海上でも仁川、黄海、蔚山沖、コルサコフ沖と順調に作戦を展開している事で海外市場から日本の継戦能力、勝利の可能性が国際市場から評価され信用状況が改善、史実以上に引き受け手が現れる事になる。
高橋是清が史実同様募集を行っていたが鴨緑江や南山で勝利をしたくらいでは世界からは偶然の勝利の可能性もあると判断をされなかなか引き受け手が現れず香港上海銀行が引き受けた事で多少表れたくらいであったが、連戦連勝を続け強固な要塞である旅順を陥落させた事が最後のきっかけとなり大幅に引き受け手が増える事になった。
史実よりも増額された1500〜2000万ポンド近い外債の募集に成功、日本の継戦能力を大幅に高める事に成功した。
また利率も史実よりも低い5%程に推移させる事に成功した。
そして史実では遼陽会戦以降弾薬の不足などに苦しめられていた日本軍であったが全体的に生産量が増加、弾薬がないから攻撃出来ない、と言った事態は発生せず史実よりも増加している国内工業力で賄う事に成功していた。
特に気球を活用した砲兵による集中射撃を実施している事で弾薬消費量も増加しているが節約して撃たなければならないと言った事態になっていない為、遼陽以降の戦果や旅順の早期陥落にも一役買う事に繋がっていた。
そして旅順陥落を受けて日本陸軍は軍の再編に取り掛かる事になる。
第一軍、第二軍、第四軍は編成を変えず第三軍より第17、18師団を引き抜き第6、7、8、16師団の4個師団編成として第三軍を再編、第17、18師団を基幹としてハワイ王国より派遣された1個旅団、独立砲兵隊、工兵、騎兵を編入し第五軍を編成、司令官には長谷川好道を任命した。
第五軍自体は旅順攻略が目前となった11月前半から編成準備を開始、先行してハワイ旅団及び軍司令部を沙河方面に向かわせ旅順攻略後1週間ほどの再編、休養を挟み先行して第17師団を派遣、そこからさらに一週間後に重砲隊、第18師団の派遣を行うこととなった。
第五軍は満州軍総予備として運用を行うこととし沙河会戦と同様ロシア軍より攻勢をかけられた場合に速やかに火消し役として投入出来るように準備が進められた。
第五軍司令を務める長谷川好道は日清戦争においては歩兵第12旅団長として出征、旅順攻略戦にて戦功をあげて男爵に叙されていた。
また日露開戦後は近衛師団長として第一軍傘下として戦闘に参加していた。
そして第五軍とは別に新たに鴨緑江軍を第11、14師団を基幹として編成し、司令官には川村景明を任命した。
鴨緑江軍も第五軍と同じく11月前半に編成準備を開始、12月前半には沙河方面に向かい沙河に展開する満州軍東翼に展開することとなる。
川村景明は戊辰戦争、萩の乱の頃から出征している熟練の将軍で新たに鴨緑江軍が編成された際にも30代以上の熟練兵を中心とした師団であったが草履を履いて前線視察を行い兵達にも親しみを持って接した事で後にクロパトキンから日本軍主力と誤認させる活躍をする事になる。
そして樺太派遣軍は岡沢精を司令官として海軍陸戦隊、屯田兵を中心として警備部隊とし、韓国駐屯軍にはロシア軍が朝鮮半島にウラジオストク方面から侵入する可能性もあった為憲兵中心の部隊から後備歩兵6個大隊、現役歩兵3個大隊を中心として大島義晶を任命、占領した旅順警備の為に韓国駐屯軍と編成を同じく西寛次郎を司令に任命、遼東半島警備を担わせる事になる。
鴨緑江軍は沙河にいる満州軍本隊に合流する事を目指しつつ奉天を目指し沙河に陣を構える満州軍東翼に、第五軍は遼東半島より沙河方面に進出の上満州軍総予備として展開することになる。
また上記の部隊とは別に川上は大本営に前線に主力部隊を集中して投入するべく更なる後方警備部隊の編成及び派遣を要求、1月頃より後備兵及び憲兵を中心とした部隊が占領地に展開していくことになる。
また特設編成の旅団も2個新設し後方警備部隊のみでは対応不可能なロシア軍の攻撃に備えるべく同じく後方に展開することになる。
また旅順攻略を終えた第三軍は2個師団を第五軍として新編された軍に抽出後は旅順の接収、捕虜収容、港湾整備に努めつつ休息、再編を行い1月初旬までに北上準備を整え遼東守備軍に引き継いだ後1月末までに沙河に集結を完了する予定となった。
そして聯合艦隊は旅順陥落を受け一部の警備艦艇を残し朝鮮半島鎮海に集結、艦艇の再整備を行いつつ集中的に訓練を行いロシアバルチック艦隊の襲来に備える事になる。




