沙河会戦
遼陽にて勝利した日本軍は無理な追撃を避け兵力の補充、弾薬の集積に努めた後進撃を再開した。
ロシア軍も日本軍の追撃を予測し鉄嶺までの撤退を考えていたが日本軍の追撃がなかった為沙河の線で踏みとどまりこちらも弾薬の集積、兵力の補充に努めていた。
ロシア軍はこの時本国より2個軍団が送り込まれ先の遼陽での損害を回復していた。
クロパトキンとしてはもう少し兵力の補充に努めたのちに攻勢に移る事を考えていたが宮廷からの圧力もあり攻勢作戦を計画するに至った。
また遼陽会戦の後日本軍が追撃を仕掛けて来なかった事から日本軍も予想に反し追撃を仕掛けて来なかった事から日本軍もかなりの消耗をしている可能性があり今から日本軍を打ち破り戦争の主導権を取り戻すことも可能であると考えていた。
また旅順要塞が苦戦しているとの報も入っており旅順が陥落して仕舞えば日本軍第三軍が満州にて合流、更に日本軍が大兵力となる事が予想された為日本軍が集結する前に打ち破る必要があるという焦燥にも駆られていた。
ロシア軍は歩兵20万、騎兵1万2千の兵力を持って攻勢を開始する事を決定した。
対する日本軍は遼陽において損害は受けていたが補充兵の到着もあり19万人ほどの兵力を有し遼陽会戦の教訓としていつでもロシア軍の攻勢を受け止め切れるように防御陣地を構築し騎兵による威力偵察、気球部隊による観測を行いロシア軍を待ち構えていた。
この時ロシア軍は全面攻勢ではなく日本軍左翼に牽制を仕掛けつつ、日本軍右翼に攻撃を集中、日本軍を遼陽に押し込み後方を遮断する作戦を立てていた。
対する日本軍も上述の騎兵による偵察や気球による観測からロシア軍の構成が迫っているかを知り、攻防どちらを選択するかを迫られていた。
会議は紛糾したものの川上司令の敵を陣地にて待ち受け、不要に陣地を放棄する事を避けロシア軍を徹底して消耗させるという方針が示され、最初はロシア軍の攻勢を受け止める形となった。
そして10月4日、ロシア軍は前進を開始、8日には本渓湖に攻撃を開始した。
翌9日には第一軍の一部が突破されそうになるも梅澤道治少将率いる近衛後備旅団の奮戦もあり本渓湖を死守、10日には満州軍からの増援と騎兵第二旅団からの側面攻撃でロシア軍の攻勢を受け止め切る事に成功した。
また9日より遼陽会戦にて完成した地上観測と気球による観測を組み合わせた砲兵による攻撃で集結したロシア軍に大損害を与え10日の深夜には勢いを失い初めていたがクロパトキンは右翼が崩れかけていると判断、11日に更なる増援を投入した。
この時第一軍は予備兵力を活用して防戦を展開しつつ砲兵による増援部隊に徹底的に攻撃を仕掛け同日深夜にはロシア軍の攻勢は頓挫する事になる。
12日に川上操六が日本軍に反転攻勢を指示、第一軍は兵力を失っているロシア軍右翼に攻撃を仕掛け、第二軍は西方から、第四軍は中央突破を図った。
同日に第四軍は三塊石山を占領、翌日には万宝山の占領に成功する。
ここでロシア軍は突出している万宝山に奪還のための攻撃を仕掛けるも砲兵を集中的にこの地点に投入、ロシア軍の奪還作戦を頓挫させる事に成功する。
この時騎兵第一旅団は威力偵察並びに後方の襲撃など騎兵の機動力を活かした戦闘を行い日本軍の勝利に大いに貢献する事となる。
17日にはクロパトキンは攻勢停止を決定、ロシア軍は沙河北方まで撤退を開始する。
日本軍も追撃を仕掛けるも沙河を渡る事は避け改めて防衛線の構築に努める事になる。
今回も日本軍に余力があるとはロシア軍の増援が予期された為、攻勢を挫くという作戦目的を達成した為追撃を中止するという判断を下す事になる。
今回日本軍は守備に努めていたこともあり損害は1.2〜1.5万人ほどと損害を抑える事に成功した。
対するロシア軍は4〜4.5万ほどを失い、暫くは再編に努め物資の集積に努めることになる。




