遼陽会戦
海上で勝利を掴んでいた日本だが未だ大陸では激戦を繰り広げていた。
旅順要塞は第一次総攻撃の後作戦方針を大転換し攻撃準備を続ける一方、進撃を続けていた第一、ニ、四の三個軍団は満州遼陽の前面に展開していた。
遼陽は南満州における重要拠点であり旅順ーハルピン間の東清鉄道南満州支線が通る重要拠点であった。
遼陽は戦前から川上操六、児玉源太郎ら陸軍参謀本部は作戦計画を策定した時点で占領を目標としていた。
遼陽を制圧し拠点とすることで奉天に向かう主力とウラジオストクへ支作戦分進合撃を構想しており奉天と共に進撃目標の一つとなっていた。
日本軍は遼陽の東側から第一軍、南側から第四軍、南西側から第二軍が迫る形となっていた。
この時日本軍は11個師団、約19万人で包囲を形成し対するロシア軍は総兵力22万を集結させ日本軍を待ち構えていた。
史実では日本軍総兵力は約13万人であり兵力差が史実よりも縮める事に成功していた。
8月25日夜、日本軍第一軍第2師団が夜襲を敢行、遼陽東部方面に置いて攻勢を開始し会戦の火蓋が切って落とされた。
26日早朝には第2師団が第一線陣地を制圧、これを受け第一軍全体で総攻撃を開始し東部のロシア軍を後退させる事に成功した。
ロシア軍はこの攻勢により陣地が南北に長くなり過ぎたためクロパトキン司令は南側より部隊を撤退させ戦線の縮小を計っていた。
その頃進撃を開始した第二、四軍は後退するロシア軍を猛追、28日には遼陽前面に到達する事に成功した。
ここまでは日本軍は当初の作戦通りに進軍する事に成功していたがここで壁にあたる事になる。
ロシア軍の後退意図は戦線の整理もあるが遼陽前面に構築した堅固な守備陣地に日本軍を引き込む事にあり二、四両軍は首山堡にて立ち往生する事になる。
ここで満州軍司令の川上操六は首山堡方面において気球を集中運用し地上観測所との観測と合わせ南山、旅順において証明された砲兵の集中砲火と正確な着弾観測による砲撃を仕掛け塹壕、弾薬集積所、指揮所、砲兵陣地、2線陣地、移動してくる予備部隊に攻撃を集中する事を決定した。
また攻撃圧力を増させるべく満州軍司令部直轄砲兵も投入し徹底した攻撃を繰り広げた。
史実では地上からの観測での限界があり限定的だった砲撃効果も気球により見えなかった後方まで見える事で砲撃精度を上げ、着弾観測を繰り返す事でロシア軍により効果的に攻撃を仕掛ける事に成功していた。
29、30、31日と3日間砲撃を繰り返し9月1日に二個軍により総攻撃を開始、2日にロシア軍守備隊を撃破、首山堡の突破に成功する。
またこの時第一軍には満州軍司令部より太子河を渡河し奉天へのロシア軍撤退路を遮断せよとの命令が下り第一軍は31日に太子河を渡河、鉄道の遮断に近付いていた。
首山堡を制圧した9月2日には第一軍も饅頭山方面を確保、ロシア軍包囲網が着々と完成しつつあった。
この時ロシア軍は追い詰められていた。
このまま遼陽に固執すれば後方は遮断され奉天への撤退が難しくなり正面からも圧力が強まっていたため完全に包囲される危険があった。
9月3日、クロパトキン司令はロシア軍の全面撤退を決意、夜には撤退を開始した。
4日には日本軍は遼陽に入城、この時傘下の3個軍には追撃は命じつつも兵力温存のため無理に行う事は禁止した。
日本軍は損害が少なく史実よりも兵数が多いとはいえ冬が迫りつつありまた、第三軍も旅順包囲を継続している中では弾薬は温存する必要があり補給線がの引きって仕舞えばそこでロシア軍の反撃を受けた場合かなりの損害を受ける可能性があるためであった。
日本軍は戦果を拡大しつつも兵力の温存に成功する。
この時ロシア軍は2.5万〜3万人の損害を出し史実よりも損害を増やす結果となった。
日本軍は1.6〜1.9万の損害を出し作戦目標であった遼陽の制圧には成功するがロシア軍の包囲には失敗していた。
だがここでロシア軍に3万人近い損害を与えつつ自軍の損害は抑える事に成功していた為今後の作戦計画も無理せず立てる事が出来、少しばかりではあるが余裕を持つことは出来ていた。
また欧米各国ではこの戦闘は日本軍の決定的勝利と報じており開戦前は怪しまれていた日本の勝利の可能性も俄に信じられ始めたのだった。




