黄海、蔚山沖海戦
日露海戦時から聯合艦隊司令部は旅順のロシア艦隊を封じ込めつつ撃滅する機会を狙い続けていた。
まず開戦直後の第一撃として2月8日の深夜に駆逐艦を主力とした部隊で旅順、大連に奇襲攻撃を敢行、戦艦2隻、防護巡洋艦1隻に損害を与える事に成功していた。
さらに11日にも夜襲を敢行、この時は少数の駆逐艦での攻撃であった事から戦果も不明瞭なものとなってしまっていた。
以降日本軍は夜襲を計画したもののロシア側の警戒が厳しくなり夜間も絶えず探照灯で周辺が照らされていたため発見されるリスクが高まり一時的に休息を挟むこととなった。
その後第一軍上陸のタイミングでの夜襲などタイミングを見て攻撃を続けていたもののなかなか決定的戦果を上げることができずにいた。
そこで聯合艦隊司令部は気球母艦からの観測をもとにした旅順港内の間接射撃及び、最新兵器である機雷による旅順封鎖を行うことを決定した。
駆逐艦に機雷を搭載し夜間や悪天候時を狙い敷設を続け、3月から始めた機雷敷設も4月には旅順沖にかなりの数を敷設する事に成功していた。
連合艦隊は徹底して機雷敷設地点の管理及びロシア軍の機雷敷設を気球や駆逐艦を使用し逐一監視をする事で旅順付近の安全航行可能な航路の把握に努め続けていた。
また旧式水雷艇を改造して作り上げた機雷掃海艇も活用して機雷位置把握、爽快に努めていた。
間接射撃の方はかなりの遠距離からの砲撃であり戦果を上げる事は叶わなかったがロシア海軍に心理的圧力を加える事には成功していた。
本来史実であればこの時期に行われていた旅順閉塞作戦であるが秋山真之が米西戦争が勃発していないためキューバにて行われた閉塞作戦を目撃していないため初期段階から計画されず、駆逐艦による夜襲及び機雷による封鎖を中心とした作戦となっていた。
そして第一軍支援のために行われた奇襲及び機雷敷設作戦の際にロシア太平洋艦隊司令マカロフが防護巡洋艦に乗り込み駆逐艦6隻を率いて日本艦隊の迎撃に出撃するが日本側の素早い撤退により接敵に出来ずに終わり旅順に帰還をしたその時、悲劇がロシア海軍に襲う事になる。
日本軍が敷設した機雷にマカロフが旗艦としていた巡洋艦ヂアーナが触雷、その後続け様にもう1発触雷し爆発、轟沈しマカロフ提督が戦死した。
これを受けロシア軍は以後日本軍が接近してきても積極的な出撃はせず、バルチック艦隊の来訪まで艦隊を維持して挟み撃ちにする計画を立て現存艦隊主義に基づき旅順に引き篭もっていく事になった。
だが7月に入って第三軍が旅順包囲を始めた頃から事情が変わり始める事になる。
南山攻略戦で大損害を被った日本軍が教訓として28センチ榴弾砲を7月後半から運用を開始、気球により着弾観測を行いながら湾内にも砲撃を開始した。
初期の頃は命中率も低かったが8月に入ってから大弧山を攻略された事でより正確な砲撃を開始、撃沈されないまでも湾内の各艦が損害を受け始めた。
これを受けてマカロフ戦死後臨時の艦隊指揮を取っていたヴィリゲリム・ヴィトゲフトに対し皇帝ニコライ2世の名で速やかに艦隊をウラジオストクに脱出させるべしという命令が届く事になる。
最初はヴィトゲフトも渋っていたが損害が増していく艦隊と命令に従わなかった場合軍法会議にかけられるとの警告を受けてウラジオストクに向けて脱出を開始する事になった。
この時、戦艦ペトロパヴロフスク、装甲巡洋艦バヤーンは砲撃による損害が酷く、砲艦や旧式艦艇も旅順に残存する事になる。
そして日本側は史実では戦艦初瀬、八島が機雷に触雷し沈没していたが主力艦の前進を極力避け、積極的な掃海活動を行っていたため沈没を避け、この時点でも戦艦8隻を擁する艦隊を維持する事に成功していた。
8月10日早朝、陸軍第三軍の気球部隊から旅順艦隊に動きありの報が聯合艦隊司令部に舞い込んだ。
その一時間後には旅順警戒部隊、気球母艦からも旅順艦隊出港の報がもたらされ東郷長官は聯合艦隊全艦に出撃を命令、12:30頃聯合艦隊は旅順艦隊の補足に成功した。
聯合艦隊は第三戦隊の八雲、浅間、橿原、丹生の優速を生かし旅順艦隊の全面に回り込みウラジオストクに流さない構えを取りつつ本体が後ろから迫り旅順にも流さない構えを取る作戦をとった。
前方から迫られつつも旅順艦隊は全速でウラジオストクに向けて逃走を続けていた。
この時旅順艦隊の艦載砲は主砲などを除き旅順防備のために陸上げされ海兵も一部陸戦隊として旅順防衛に加わっておりロシア艦隊がなんとしても逃げ続ける事は致し方のない事ではあった。
聯合艦隊としては極東に向けロシアバルチック艦隊の艦艇が回航されているという情報を仕入れておりバルチック艦隊が到着してしまえば旅順とウラジオストクから挟み撃ちに合う形となり日本海の制海権維持すら怪しくなるためなんとしてもここで撃滅したかったのだ。
聯合艦隊司令部は外洋に誘い出す作戦を考えるものの秋山真之は旅順に戻る意図がない事を察知、なんとしても頭を抑え続ける事を具申した。
作戦具申に従い頭を抑え続けた結果ウラジオストクへの道を塞ぎ続ける事になりヴィトゲフト提督は旅順への撤退を決意、全艦に一斉に旅順への進路を取るように命じたところでロシア艦隊に悲劇が襲った。
ツェザレビッチの艦橋に三笠の砲撃が命中、ヴィトゲフト提督以下幕僚達が戦死し、ツェザレビッチの操舵手も左に操舵を巻き込んだまま戦死、ツェザレビッチが旅順に向かう方向に急旋回する姿となった。
後続の戦艦達もそれに倣った結果後続の巡洋艦群などに突入する事になりロシア艦隊は大混乱に陥る事になる。
そこに連合艦隊は猛攻撃を仕掛け旅順艦隊の脱出を許さず満身創痍となった各艦は旅順に逃げ帰る事になった。
あまりの損害の大きさに旅順艦隊の修復も行うことが出来ず、旅順艦隊は旅順陥落まで身動きを取らずに沈黙し続ける事になる。
一方その頃ウラジオストクには駆逐艦レシテリヌイより旅順艦隊出撃の報がもたらされ、支援のために装甲巡洋艦3隻、防護巡洋艦2隻、仮装巡洋艦1隻がウラジオストクより出撃した。
このウラジオストクの部隊は日本軍からはウラジオ艦隊と呼ばれ日本海の制海権維持の上で障害となっている部隊だった。
ウラジオ艦隊は日本側が金州丸を撃沈されて以降船団を組み、第三艦隊の防護巡洋艦、駆逐艦を中心に護衛艦艇をつけて物資輸送などを行っていたため輸送船の撃沈は叶わなかったが漁船などを攻撃、日本沿岸にも出現して艦砲射撃を仕掛ける事を繰り返していた。
上村中将率いる第二艦隊がウラジオ艦隊の捜索に当たっていたものの日本海特有の濃霧のためになかなか発見できずにいた。
そのため国内では上村中将に批判が殺到、議会では濃霧を逆から読めば無能なりと行った演説や、酷い時には上村中将の邸宅に投石が行われることもあった。
ただ一つ幸いだった事はウラジオ艦隊が太平洋に進出、日布聯合が領有する島嶼地域に対して攻撃を行っていない事だった。
太平洋に進出されれば捕捉する事は困難でより撃滅に遠のいてしまう所だった。
ウラジオ艦隊内では太平洋での通商破壊も検討されたがあくまでも日本海において通商破壊を行う事で日本の継戦能力を下げるべく日本海沿岸などを中心としての作戦行動となった。
第二艦隊は蔚山沖にて14日未明、ウラジオ艦隊を補足する事に成功した。
第二艦隊は即座にウラジオ艦隊に接近、8400mから砲撃戦は始まったがすぐに距離は5000mに縮まった。
日本側はこれまでの鬱憤を晴らすが如くウラジオ艦隊に猛攻撃を仕掛けまず即座に補助巡洋艦の撃沈に成功する。
艦隊最後尾につけていたリューリクも機関を損傷し落伍した。
残存艦隊はリューリク援護のために反転するもあまりの攻撃の激しさに全滅の危機に陥りウラジオストクに撤退を開始した。
第二艦隊は随伴していた防護巡洋艦2隻にリューリクの処理を任せて追撃を開始した。
史実であれば途中で弾薬が欠乏しているという誤報を受けて追撃を中止していたが今回はその誤報も発生せずさらに損害を与えていた。
ロシア、グロモボイも大損害を受けてウラジオへの撤退を中止、ロシアは自沈するもグロモボイ、リューリクは日本艦隊に降伏、防護巡洋艦2隻はなんとかウラジオに撤退をするが艦は廃艦同然の状態となり日露戦争中の再行動は不可能となった。
上村中将のウラジオ艦隊撃滅はすぐに日本中を駆け巡り露たん提督と呼ばれていたのから一転して名将ともてはやされる事になる。
また黄海海戦時、防護巡洋艦ノヴァークはなんとか逃走に成功し宗谷海峡を抜けてウラジオを目指していたがこちらも日本艦隊に捕捉され岩礁に座礁し日本側に捕獲される事になる。
そして駆逐艦レシテリヌイもウラジオに打電後逃走し芝罘に向かったものの気球母艦に捕捉され駆逐艦からの追撃を受けてこちらも日本に捕獲される事になる。
黄海海戦、蔚山沖海戦で大勝利を収めた聯合艦隊であったが課題も残る事になった。
黄海海戦では速力を生かしてロシア艦隊の頭を抑える事には成功したが丁字戦法には失敗、砲撃でも敵艦を沈める事に失敗していた。
この教訓を受けて猛訓練を積み日本海海戦でのパーフェクトゲームに繋がる事になる。
日布聯合は日本近海の制海権を完全に掌握ししばしバルチック艦隊来訪まで休息を挟む事になる。
また暫くは陸でのロシアとの戦いが続いていく事になる。




