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波濤の王冠 カラカウアの遺産  作者: ゆうき
日清日露戦争 連合王国の更なる飛躍
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第一、第二軍の進撃と第四軍上陸

第二軍は南山攻略後一部の兵力を第三軍到着までの間の旅順ー満州閉鎖作戦に残しつつ満州に転戦、進撃を開始した。

この時ロシア軍は方針をめぐって二転三転する事となっていた。

ロシア満州軍司令クロパトキンは遼陽方面に部隊を集結させた上で日本軍と一大決戦を行う作戦であったが極東総督アレクセーエフは旅順救援を強硬に主張していた。

当初はクロパトキンの作戦通り遼陽にて決戦を行う方針になったが宮廷より圧力を受けクロパトキンも旅順救援に方針を転換せざるを得なくなり、スタケリベルク中将に約四万の兵を預け一路旅順救援に向かわせる事になった。


日本軍は得利寺を攻略すべく秋山好古率いる騎兵部隊に偵察活動を行うことを命令、秋山支隊は偵察活動を開始した。

偵察活動の中で曲家店付近にてロシア軍と戦闘に突入した。

戦闘開始直後は数で勝る日本軍がロシア軍を撃退、追撃を行うが後にロシア軍は騎兵砲を伴った増援で攻勢を開始、秋山支隊は苦戦を強いられるが15:00ごろにロシア軍が撤退を開始、日本軍はなんとか勝利する事に成功する。

その翌日も秋山支隊とコサック騎兵が衝突するが秋山支隊が野砲を隠した地点にロシア軍を誘導、野砲の砲撃の後に反転攻勢をかけロシア軍を撃破する事に成功する。

この戦闘以後日本軍は騎兵の運用方法について手探りながらロシア騎兵と戦闘を日露戦争中繰り広げていく事になる。

日本軍は秋山支隊の偵察活動の中でロシア軍の南下を知り大本営でも作戦計画をめぐり議論が繰り広げられる事になる。

第二軍司令部としてはロシア軍の詳細が不明なため慎重を期してロシア軍の構成を受け止めたのちに反撃に移る方針としたが大本営はこれに待ったをかける事になる。

大本営としては得利寺に陣地を構築しているロシア軍の集結が完了する前に得利寺を占領、今後もロシア軍に旅順救援を諦めさせたいという思いがあった。

また得利寺は周囲を山に囲まれており守備側は平野に陣地を築くだけでよく非常に守りやすい地だった。

そこにロシア軍に本格的陣地を築かれてしまうと南山の戦いのように大損害が出ることは必須でありそう言ったことを避けるためにも大本営は陣地構築前の攻撃を求めていた。


大本営からの要請を受け第二軍は6月13日北上を開始、6月14日に得利寺にてロシア軍と交戦を開始した。

第二軍は第15師団を守備に残していたものの第1、3、5の三個師団で攻撃を開始、約5万人の兵力を有する第二軍はロシア軍に数でも勝り翌日には第5師団がロシア軍右翼に、騎兵第1旅団が左翼に周りロシア軍を包囲する動きを見せた。

包囲を仕掛けつつも第1、第3師団は正面から攻撃を続けロシア軍に撤退する余裕を与えず包囲完成直前にロシア軍はなんとか撤退を開始、機を逃さず日本軍は追撃を開始、ロシア軍は1万5千人近い損害を出して撤退していった。

得利寺での敗北を受けロシア軍は旅順救援を断念、満州と旅順を孤立させる日本軍の作戦が成功する事になる。


その後第三軍上陸に伴って第15師団と合流の上部隊の休養、再編を済ませて再度進撃を再開、蓋平にてロシア軍との戦闘を繰り広げる事になる。

日本軍は第15師団の合流もあり約7万人を擁し対するロシア軍は半分以下の約2万人の兵力だった。

圧倒的兵力差もありロシア軍は消極的戦闘であったが第二軍は圧倒的兵力を元に総攻撃を仕掛けつつ秋山支隊と第15師団で包囲を掛けたもののロシア軍は包囲を目指す日本軍の動きをみて即座に撤退、日本軍は追撃をかけロシア軍に約千人ほどの損害を与える事に成功した。

勢いそのままに第二軍は進撃を続け7月23日には大石橋方面に進撃した。

大石橋においてロシア軍は高地の稜線を用いて守備陣地を構築、後此老溝―大平嶺―青石山―田家屯―牛心山にいたる長大な防衛線で重砲を主体として攻めかかる日本軍に砲撃を浴びせかけて来たものの日本軍は南山の戦いなどの教訓から大量の重砲を用意、熾烈な砲撃戦の相応を見せていた。

7月24日に日本軍第1師団がロシア軍右翼に夜襲を敢行、第一線陣地を奪取し第二線陣地にも攻撃、早朝には高地の占領に成功する。

高地が占領された事を受けてロシア軍は撤退を開始、この際にも日本軍は追撃戦を仕掛けて大石橋の占領に成功、これにより第二軍は満州平原中央に進出する事に成功する。



その頃第一軍も鴨緑江突破後進撃を続け摩天嶺付近にて第2師団、近衛師団がロシア軍より攻撃を受けていた。

7月4日ロシア軍は日本軍の2.5倍の兵力で押し寄せて来たものの陣地の構築を済ませていた第2、近衛師団は頑強に抵抗していた。

熾烈な砲撃戦が繰り広げられる中昼過ぎ日本軍の砲撃がロシア軍司令部に直撃、フョードル・ケルレル将軍がその砲撃で戦死する。

日本軍は守備に徹し攻めあぐねていたが14:00頃ロシア軍が撤退を開始した。

日本軍は訳もわからず困惑していたがフョードル・ケルレルが戦死した事をしり納得する事になる。

第一軍もこの戦闘に勝利した事で朝鮮半島方面から満州平原中央部に進撃ルートを確保する事に成功、進撃を続けていく事になる。



その頃7月頭には大弧山に新たに編成された第四軍が上陸していた。

第四軍は第4、9、10の三個師団からなり司令官は野津道貫が就任した。

野津は日清戦争時にも師団長の後第一軍司令として出征し奇襲の名人としても有名であった。

日清戦争でも最大の功績を上げ天皇陛下から3度も勅使を賜る功績を上げていた司令官だった。

第四軍は上陸後析木城を第一目標として進撃を開始、7月31日、析木城にてロシア軍と接敵した。

第四軍は砲兵による熾烈な砲撃の後シベリア第二軍に攻撃を開始、それと並行して海城にも第二軍が攻撃を開始した事でロシア軍は撤退、第四軍は析木城の占領に成功した。

これにより遼陽付近に第一、ニ、四の3個軍の布陣が可能となり遼陽にてロシア軍主力との戦闘が行われる事になる。


そして日本軍は南山、旅順、これらの戦闘において大きな教訓を得る事になった。

一つは日露開戦前から研究していた気球を活用した砲兵の着弾観測を実践出来たことである。

各軍直轄として保有していた気球部隊による砲兵の着弾観測を部分的に実施した結果有効である事が判明、後の遼陽会戦にて生かされていく事になる。

また騎兵の活用方法にも一つの答えを見出し始めていた。

本格的に日本軍が活用に成功するのは後の沙河会戦からではあるがただ騎兵を突撃させるだかではなく、側面に回り込ませての強襲から偵察まで幅広く行わせる事で作戦の幅を広げ、攻守共に有効に作戦展開に役立つという事が証明されて後々の戦闘においてもそう言った活用がなされていく事になる。

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