公債募集と包囲、総攻撃開始
第二軍が大連の占領に成功したその時英国の地では日銀副総裁である高橋是清が今後の日本の継戦能力を決める上でも重要な戦いを繰り広げていた。
いかに日布連合が史実よりも経済力があり財政的余裕があるからと言っても単独の予算では戦い抜く事も出来るはずがなく公債の募集を行っていた。
開戦と共に公債の募集を開始したものの初期段階では各国の銀行投資家は日本が勝利するとは信じておらず、日本に支払い能力はあるにしても中立違反になる事を恐れて引き受けてが全く現れない状態となっていた。
鴨緑江突破及び南山攻略の報が世界を駆け巡ってからは少しは変化は訪れたがやはり中立違反を恐れて引き受けてが現れても少ない状況であった。
高橋是清は日本の継戦能力を説いて周り南北戦争及び露土戦争においても中立国が公債を引き受けた事例を挙げ、また支払い能力も関税収入という確実なものでの支払いを確約したが英国人を中心とした関税支払いを監視する委員会の設立を申し入れられてしまった。
それでも是清は一歩も引く事なく日本が外債支払いに遅延した事がない事からその要求を拒絶、粘り強く交渉を続けた事でやっと大口の引き受けてとして香港上海銀行が手を挙げた。
香港上海銀行が手を挙げた事をみて今度は各銀行が一挙に引き受けを表明、日本は予定されていた公債の発行を成功させる事ができた。
それと並行してストックホルムに駐在武官して赴任していた明石元次郎は戦前から築いていた人脈を活かして後方錯乱工作を開始していた。
民族主義者や社会主義者らとモスクワ駐在武官として赴任していた1902年から開戦直前まで接触を繰り返しておりそれらの人物に資金提供を行う事でロシア国内の不安を高める事を意図して工作活動を行い続けていた。
またモスクワ、サンクトペテルブルクなどにも現地人をスパイとして潜り込ませシベリア鉄道の運行状況や軍の移動状況を入手し逐一東京に打電していた。
この時明石は後にロシアを揺るがす革命家のレーニンともスイスで接触を持ったと言われており詳細は不明ながら後にこれが大きな事件を引き起こしていく。
満州の後方においても花田仲之助中佐が中心となって満州馬賊を活用してロシアの鉄道網などの施設に攻撃を開始していた。
馬賊を活用したゲリラ的攻撃は判明すれば国際法に抵触する恐れがあり秘密裏に行われたがこれらのゲリラ的攻撃や情報も東京へ送られて続ける事になる。
それらの活動が行われていく中で新たに編成された第三軍が遼東半島塩大澳の地に上陸する事になる。
第三軍は乃木希典を司令官とし第6、7、8、16、17師団の5個師団を有する部隊として組織された。
第三軍は極力早期に旅順要塞を攻略またはロシア太平洋艦隊を行動不能にする事が求められていた。
司令官を務める乃木希典は若き頃は料亭に入り浸り妻との祝言にも遅れるなど遊び呆けていたがドイツ留学の後陸軍大臣大山巌に提出した復命書の中で軍人の綱紀粛正による軍記の厳正化、軍人教育の重要性、徳義を重んじ制服着用の重要性について復命、それ以後その復命書に沿うような軍人の姿となって行った。
また度々那須での休職を挟んだものの古今東西の軍事書を読み漁り、那須近郊にて演習が行われる際には必ず顔を出し軍事知識の研鑽に努めていた。
また西南戦争が勃発していない為、連隊旗を薩軍に奪取される事もなく、幕末期に師事ひた吉田松陰の教えにある天皇への忠誠を厚く抱きながらも死に場所を求めると言った姿もなくこの時を迎えていた。
第三軍は上陸後気球部隊による偵察を行った結果、大本営より受領していた要塞地図と現地が大幅に違うという問題に直面していた。
司令官である乃木は日清戦争時にも旅順攻略を担当していたがその時とも大幅に姿を変えていた。
大本営からの地図には要塞前進陣地の記載がなく一部の堡塁は臨時築城と書かれている始末であった。
第三軍はまず攻略作戦の再検討を行うべく偵察を重点的に行う事となった。
この時の旅順要塞はロシアがベトンを用いた永久要塞と化しており本来は1909年完成予定であり日露開戦時点では約45%程の完成率で一部予算不足の為建設が遅れがちな所は存在していたがそれでもなお強力な要塞であることには違いなかった。
ベトンで固めた半永久堡塁8個を中心として各地の堡塁、砲台などを塹壕で繋げた要塞で44,000の兵が立て篭もっていた。
この時大本営も旅順要塞を攻略してロシア太平洋艦隊を行動不能にする事を求めてはいたが無理に攻略を行わせようとする動きは史実と比べると控えられていた。
6月20日に編成された満州軍の司令に就任した川上操六の反対、南山攻略作戦で川上の予想通り想定以上の損害を出した事で無理に攻め寄せて損害を増す事を避けたかったである。
第三軍司令部でも6月8日に上陸後まずは偵察を重ねつつ重砲による攻撃を行いながら前進拠点を攻略し様子見を続けていた。
この時本土からは28センチ砲を送り出しており28センチ砲の到着を待ってから攻略すべしという決定が下されていた。
28センチ砲は沿岸要塞でも使用される強力な砲であったが強固な地盤を必要としていた。
7月前半には本土から到着することが予想されたが6月後半から始めた地盤強化工事はコンクリートの乾燥まで含めて1ヶ月ほど必要であり準備砲撃が始められるのが7月後半からと予想された。
そう言った事情を込みで後に編成された満州軍司令部もその方針に同意、事前砲撃の期間も含めて8月1日より攻略を開始する事とした。
基本方針としては要塞東北方面より攻略を開始する事とした。
東北方面には市街地を見渡せる砲台がありその砲台が健在な限りどこを攻略しようとしても砲撃を加えられることに加えて、203高地方面から攻撃を行うとなると平地を敵の攻撃に晒されつつ移動しなければならず損害が増えることが想定されたからであった。
8月1日からの攻撃ではまず旅順湾内の砲撃観測所となる大孤山の攻略をまず行う事とした。
気球部隊による着弾観測も行われてはいたが気球自体が風に煽られて正確な観測が難しいという事情も存在していた。
8月2日には大孤山に攻撃を開始、翌日には攻略に成功する。
大孤山を制圧した事で第三軍は旅順を円弧型に包囲する形となり攻撃の準備が完了した。
そこから第三軍は川上の事前研究にもある坑道爆破、塹壕を掘り進めての接近に基づき攻略を展開しようとするが待ったがかかる事になる。
大本営としては旅順を早期に陥落させ旅順艦隊の封じ込めを図ると共に第三軍の兵力を満州に早期に転用、ロシア軍との決戦を優位に進めるべく南山の教訓から事前砲撃の必要性は認めたものの早期に総攻撃を実施し旅順の早期攻略を求めたのだった。
大本営としては南山を砲撃により早期に攻略出来たのだから旅順とて同じであろうとの考えもあった。
それに対して満州軍司令川上操六と乃木希典は総攻撃に対し慎重論を唱える事になる。
川上は自身の戦前からの研究に基づき正面突撃はイタズラに損害を増やすだけであり兵力温存の観点から時間をかけるべきと主張した。
また乃木希典自身も川上とドイツに共に留学に行きドイツ式軍制を学んでいたため川上の意図を理解し、自身もまた軍事学の勉強を怠っていなかったため慎重を期すべきと判断していた。
そして野戦築城の南山と永久堡塁の旅順は頑強さが違うのだから慎重を期すべきという意見だった。
だが大本営の圧には抗えず総攻撃を実施する事となったが更なる砲撃を行った後に攻撃を行う旨は承認を川上が勝ち取り砲撃を行った上で8月19日、総攻撃を開始する事となった。
総攻撃開始後当初は順調に進んでるかと思われたが28センチ砲を持ってしても厚いコンクリートを完璧に撃ち抜くことは叶わなかった。
だが入念な準備砲撃を行った成果は出ていた。
地雷原、鉄条網の破壊には成功、機関銃による十字砲火や各地からの砲撃はあった物の有刺鉄線を爆破しての突撃などを行わずに済んでいた。
7日間に渡る総攻撃で目標の盤龍山東西堡塁、P堡塁、一七一高地の制圧には成功したがたった7日間の攻防戦で約6000人の死者を出し負傷者も7000人近く出してしまっていた。
入念な準備砲撃を行ったにも関わらず南山以上の損害を出し第三軍、満州軍司令部は勿論の事大本営も慌てふためく事になる。
これをきっかけとして川上は大本営に作戦方針の転換を迫り大本営に認めさせるに至った。
川上自身は乃木に旅順の早期攻略、旅順艦隊の無力化、損害を極力少なくする事、これ以後総攻撃を禁ずる旨を命令、乃木希典もその作戦方針を承認、川上の研究を元に更に実践で要塞攻略理論を発展させていく事になる。
また乃木は満州軍を通して更なる重砲、工兵を求め後に樺太攻略が完了した第18師団が増援として送られてくる事になる。
第一回総攻撃は史実よりも損害を少なくして戦果を拡大する事には成功したものの無理攻めはイタズラに損害を増やすという教訓を日本軍に残す事になった。
またこれ以降大本営が作戦方針に口出しをする事はなくなり川上指揮の元日本陸軍は大陸にて奮戦していく。
そしてこれ以降川上より大枠の作戦方針を伝えられた乃木は川上の作戦意図を理解した上で攻略を進めながら具体化を進め旅順攻略を進めていく事になる。
そして第三軍が大孤山を制圧した事で湾内の全てとはいかずとも大部分を観測する事が出来るようになり気球部隊と合わせて湾内へのより正確な砲撃を開始、ロシア太平洋艦隊に損害を与える事に成功していた。
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