遼東半島上陸
日本陸軍第一軍が鴨緑江を突破し順調に進撃を開始すると同時に黒井悌次郎率いる海兵隊が遼東半島南部大沙河河口に上陸した。
現地には小規模なロシア軍が駐屯していたものの第三艦隊第七戦隊が援護砲撃を実施した所一目散に逃げ去り海兵隊は無血で上陸する事に成功する。
その後海兵隊が確保した橋頭堡に奥保鞏率いる第二軍が上陸する。
第二軍は第1、3、5、15の4個師団を擁し遼東半島と満州との連絡を遮断、大連方面まで占領の後満州方面に転戦、第一軍と比べ左翼方面を進撃し奉天まで進撃する事が予定されていた。
奥は戊辰戦争、台湾出兵に出征しており実戦経験も豊富であった。
また奥は佐幕側の小倉藩出身でありながら陸軍で出世を続けた異例の人材で長州征伐などでも政府と直接戦闘を行っているのが小倉藩であった。
この頃の陸海軍共に藩閥の影響が大きく薩摩、長州など維新に貢献した藩出身でないと出世の道は望めなかったが奥は指揮搭載能力が非常に高く、またその謙虚な性格もあったからであった。
日露開戦前にも第二軍司令官に奥の名前が上がった際には陸軍内部でも反対の声は出ないほどであった。
第二軍は全軍上陸後速やかに作戦行動を開始、まず手始めに周辺の残敵の掃討及び電信、鉄道の破壊、情報収集に努めていた。
これら準備期間中に攻略目標である旅順を陸上から封鎖する要である南山がベトンで固められた近代的な要塞である事が判明、奥大将は重砲の更なる要求及び聯合艦隊による砲撃支援を大本営に要求する事になる。
大本営としては当初、重砲隊も派遣せず聯合艦隊による砲撃支援も実施しない予定であったが設置準備が進められていた満州軍司令官に内定していた川上操六から反対の声が上がった。
大本営としては増援を待てばロシア軍は更に強化されてより攻略が難しくなるため早期に攻略すべしという意見を持っていたが川上は違っていた。
先にも挙げているがフランス式及びドイツ式の要塞攻略を研究していた川上はそれらを用いつつ重砲による圧倒的火力で敵要塞の反撃能力を喪失させた上での攻略作戦を提唱した。
大本営としては早期攻略を目指したい所ではあったが損害が出る事も今後の戦争遂行を考えた上では極力少なくしたいという思いもあったため間をとって連合艦隊第三艦隊とより鎮遠、定遠、松島、厳島、橋立、扶桑を派遣し艦砲射撃による援護を行う事で決着した。
日本軍は5月20日には南山の陣地を包囲に成功、順次第三艦隊から派遣された艦艇からの艦砲射撃が開始された。
24日には旅順防衛線を構築する一角の金州城に攻撃を開始、城塞都市である金州城をうまく活用したロシア軍の前に苦戦を強いられるも第1師団砲兵隊による砲撃でロシア軍砲兵隊を粉砕、工兵隊による城門爆破の成功もあり25日早朝には金州城の攻略に成功する。
残存したロシア軍は南山に撤退した。
同日の午前、金州城攻略成功の報と共に日本軍は南山の陣地に攻撃を開始した。
事前に第三艦隊から派遣された艦艇から行われた艦砲射撃が功を奏して南山左翼のロシア軍塹壕が壊滅していた事もありそこを中心に攻撃を行った結果午後には南山の攻略に成功する。
だがそれでもトレチャコフ大佐が機関銃及び地雷、鉄条網で構築した陣地による被害は大きく2000人近くの死傷者を日本軍は出す事になる。
史実の半分で済んでるとはいえ大本営の衝撃も大きく200人の死傷者の間違いではないかと電報にて再度確認が入るほどであった。
この南山攻略作戦で川上の作戦計画の正しさが改めて認識され力押しで進んでいた場合の結果に日本軍首脳部は恐怖する事になる。
但しこの時、塹壕を掘らずに砲撃のみで攻略に成功してしまった事から旅順に第一次総攻撃をかけた際に再度首脳部は恐怖を覚える事になるが…………
またこの時気球部隊による着弾観測の有用性も確認され来るべき旅順攻略においては更なる重砲の活用及び現在の砲火力では不足する事が予想されたため本土から陸軍が有する最大口径の砲である28センチ砲を運び出し要塞攻略に活用していく事になる。
その後第二軍は大連まで占領、旅順の包囲を新編される第三軍に託し満州方面に転戦していく事になる。




