鴨緑江突破
日本軍は開戦後旅順港に定期的に夜間雷撃作戦、港外からの艦砲射撃を実施し封じ込めを行いつつ旅順艦隊の監視を継続していた。
また上村中将率いる第二艦隊はウラジオストク沖に展開、市街地や造船所、砲台に向けて艦砲射撃を行い撤退する事を繰り返していた。
そういった情勢の中黒木為楨率いる第一軍が続々と大同江河口から上陸、部隊集結後一路鴨緑江突破を目指して北進を開始した。
第一軍は近衛、第2、第12、第13師団の4個師団を有し鴨緑江突破後に満州東部への侵攻の主力を担う部隊となった。
黒木為楨は薩摩の武人らしく理論よりも実戦経験を重視し、勇猛に突撃するタイプの指揮官だった。
特に戊辰戦争における宇都宮城攻略作戦では黒木が城壁に単身突撃し城壁に取り付いた事が攻略のきっかけとなった。
4月29日、鴨緑江に到達した第一軍は九連城付近から渡河作戦を開始した。
対するロシア軍はザスーリチ中将率いる一個師団で待ち構えていた。
ロシア軍は当時の軍事常識で言えば渡河作戦を行うには守備側の5倍の兵力が必要でありこの場合日本軍は現時点で約4倍でありロシア軍はこの方面の部隊を集結させればさらにその差を縮める事が可能であり本来であればそうするべきであった。
だがロシア軍は自分たちの力を過信しこの程度でも対処可能としてザスーリチ中将はこの規模での守備作戦を行う事にした。
ザスーリチの中には日本は黄色人種でありロシア人には体格で劣り小銃や機関銃などの火器の性能もロシア製兵器に劣るとした差別的な思想も混ざっておりこの判断に至ってしまっていた。
またロシア満州軍首脳部は日本軍の渡河地点を九連城よりも下流の安東と予想しており安東に主力を配置、その他の地域にも広く兵力を分散して配置しておりその点もロシア軍にとっては不利な点となっていた。
日本軍は29日工兵隊による架橋作戦を開始、第2、近衛師団が九連城正面の中洲まで進撃、翌日には12センチ榴弾砲などの展開を済ませ熾烈な砲撃を行いつつ進撃を開始した。
対するロシア軍も日本軍の攻撃に全力で迎撃を開始、正面の日本軍と衝突した。
だがロシア軍はこの時正面に気を取られすぎて12、13師団がこれよりも上流の地点から渡河している事に気が付かず無傷で日本軍の渡河を許してしまう。
その後この別働隊は九連城周辺の高地を制圧、更なる砲撃を加え始める。
同日の午後には正面の部隊も順次渡河に成功し九連城よりロシア軍が迎撃に出るも数に勝る日本軍の前に敗退、ザスーリチ中将も負傷しながらも後方の鳳凰城に退却、再度の戦闘の構えを見せるもののロシア満州軍司令部からの決戦を避けよとの命令から退却、日本軍は無事に鴨緑江をとかする事に成功した。
またこの時樺太においても戦闘が勃発していた。
樺太には第18師団と特別樺太混成旅団、樺太屯田兵部隊が樺太派遣軍として派遣されていた。
開戦後速やかに進撃を開始した日本軍はゲリラなどを警戒しつつ進撃中にイルキルにてロシア軍2個旅団と戦闘に突入した。
日本軍は18師団主力が正面の相手をしつつ左側面から師団の別働隊が奇襲を仕掛けた事でイルキル守備隊は潰走、ノグリキまで撤退する事になる。
この時特別樺太混成旅団もアレクサンドロフスク・サハリンスキーに攻撃を開始、こちらも2個旅団が駐屯しておりロシア軍の抵抗も激しかったがイルキル陥落の報を受け包囲される事を恐れて撤退を開始、こちらも日本軍の勝利で終了した。
この時本来であればアレクサンドロフスク・サハリンスキーが北樺太の主要都市でロシア軍の司令部候補であったが早期に日本軍の脅威に晒されることが想定されたためオハに司令部を移していた為早期の撤退に繋がった。
ロシア軍はポキビーヴァル間にて残存している3個旅団で迎え打つ構えを見せだがゲリラ戦に戦法を変更しオハまで遅滞戦術を行いながらオハでの迎撃準備を整えていたが日本軍も警戒を怠らずに進撃したため各地でロシア軍の掃討を行いながら進撃し3月から進撃を行い5月にはオハ前面に到達した。
オハの包囲を行いつつ重砲での砲撃を行いオハに突入、樺太のロシア軍は6月を前に降伏する事になった。
樺太警備は樺太混成旅団及び屯田兵部隊にて行いつつ8月に18師団は旅順攻略を担当する第三軍の元に送られる事になる。
またこの頃からウラジオストクに駐屯していた装甲巡洋艦による通商破壊が本格化し金州丸が撃沈されるなど商船への被害が多発し始めていた。
新聞報道を受け国内世論は沸騰し海軍への批判の声が高まる事になった。
また新聞社によっては軍の戦略物資を搭載した商船が護衛なしで運行されている事にも及び海軍は第三艦隊の艦艇を護衛をつけると共に物資を輸送する船舶を集中的に航行させ船団を組んで輸送を行なっていく事になる。
また旅順封鎖から第二艦隊を抽出し日本海にてウラジオ艦隊の掃討作戦を開始する事になる。




