国内開発の効果と更なる軍拡
北清事変の後、遼東半島を得たロシア軍は旅順、大連の要塞化を押し進めつつロシア軍は満州を軍事占領下に置き続け日英との対立はより一層深まるばかりであった。
日英からの猛抗議を受け露清間にて満州還付条約を1902年に締結、半年ごとに一年半に分けてロシア兵を撤退させ満州を清国の主権下に戻す事が決められたが清国軍の駐留兵数をロシアと協議する事、増減の際はロシアと相談する事、南満州における鉄道の敷設は露清間にて協議する事、ロシアが敷設し清国に返還する鉄道に関しては清国が修繕費を負担するなどロシアに圧倒的優位な条約となった。
日英共に反発するものの日本の古村外相は容認方針を示し英国が不快感を示す事はあったが日本としては兎にも角にもロシアが満州から撤兵する事が重要としていた。
1902年4月8日に満州還付条約として露清間で締結されたこの条約は10月8日に第一次撤兵期限を迎えロシア軍は条約に基づき撤退を行ったが第一次撤兵で撤退した部隊は制服を財務省管轄の鉄道守備隊の制服に着替えて満鉄周辺に駐留し直したのみでその後の第二次、第三次撤兵期限においては撤兵すら守られない有様であった。
その頃日本国内及びハワイ、台湾は史実以上に発展を遂げていた。
国内はこの時期には開業していなかった各路線が開業し、官営八幡、釜石製鉄が拡張され呉、横須賀、佐世保、舞鶴、大湊の各海軍工廠の拡張、大阪、小倉の陸軍兵器廠の拡張などが進められていた。
北方の南樺太、北海道も炭鉱、林業、農業開発を進め千島列島では海産物加工工場を開発していた。
台湾においても高雄ー台中ー基隆間の台湾縦貫線が開業、港湾整備、ダム開発、製糖事業に重点的に投資が行われていた。
ハワイでは真珠湾の工廠拡張、各島の港湾の更なる拡張を進めていた。
ミッドウェーなどの無人島においても港湾を整備し気球発着に使えるエリアの整備を進めていた。
また東京、京都、大阪、北海道、博多、台北、ホノルルに国立大学を新設及び増設を行い高等学校、尋常小学、中学の増設も行われた。
これらの開発により史実ベースのGDP比で1.4倍ほどの国力を手に入れ工業生産、鉄道輸送量、財政余力も1.5倍程となり更なる軍事改革が可能となった。
まず1901年に陸海軍合同で気球研究班が発足、翌年の1902年、陸軍大演習及び海軍大演習において気球を実際に使用して行われ陸軍の場合は会戦を想定して行い実際に気球の有無で敵情把握に差が出て勝負を分ける事が判明、来る対露戦に向けて師団付き気球部隊及び独立気球偵察隊を整備する事になった。
海軍は海戦時における偵察として臨時に商船を徴用し気球母艦として運用、検証の結果5〜8ノットの間では航行中でも気球を係留可能で停泊中ならばなお良しとの結果が示され弾着観測は海上からの上陸援護の艦砲射撃時などに行い海戦時は上空から索敵を行い敵をいち早く発見して攻撃を行う事が可能と判断された。
海軍は商船を購入し海軍に編入の上気球母艦として2隻ほど運用を行うことを決定した。
またこれと並行して近代化されてより強固になった旅順要塞の攻略方法の検討も進められた。
陸軍の参謀本部においては日清戦争当時の旅順要塞のイメージに引きずられ短期攻略が可能という声が大きかったがここで川上操六が異議を唱える事になる。
史実では1899年、51歳で没していた川上であるが日布連合成立後史実よりも多い予算が医療にも割り振られた結果1899年は死去せず未だ日露開戦が近い陸軍近代化及び改革を押し進めていた。
川上は徹底した作戦研究を重視し、日清戦争の教訓から兵站強化の研究を続けており旅順要塞もクリミア戦争のセヴァストポリ要塞や露土戦争のプレブナ包囲戦を例に、旅順を力攻めすれば損害が拡大する事は必須であり、ドイツ陸軍の包囲した上で補給を締め上げる作戦及びフランス軍の工兵を用い塹壕を掘り進め坑道をほり要塞直下で爆破する方法二つを重視する事で旅順攻略を目指すべしと主張した。
ただ実際の所は参謀本部においてはやって見なければわからないという空気も強く、開戦後の南山攻略戦や旅順要塞への第一次総攻撃の後に大幅に方針転換がなされる事になる。
また包囲を行うためには海軍の協力も不可欠であり遼東半島攻略のためには南山付近に上陸する事が想定されたため平時から陸海軍合同で作戦研究を行うことを主張した。
海軍でも西郷従道や山本権兵衛などの海軍の長老や陸軍の山縣有朋なども賛同し陸海軍合同の作戦研究室が設置されることになった。
またこの頃海軍では気球の他にも海軍根拠地守備及び敵前に強襲揚陸を行い迅速に橋頭堡を確保した後陸軍の揚陸を支援するための部隊として明治維新後すぐに設置されて三、四年ほどで廃止された海兵隊の再設置を行なっていた。
この再設置にも反対の声はあったが日布連合の広大な領海及び島嶼に侵攻を受けた場合速やかに動員を行い奪還の為の強襲を仕掛ける為の部隊と説明し承認される事になった。
海兵隊は旅団規模で編成されひとまず一個旅団が整備される事になった。
またイギリスとの交流の中で機雷の脅威に秋山真之が着目、史実では旅順閉塞作戦を提案する事になるがこの世界では米西戦争を観戦していない為、駆逐艦、水雷艇による夜襲を行なった後、機雷を敷設する事で旅順の閉鎖を行う作戦を立案していた。
但し日本が機雷を敷設するという事は勿論ロシアも敷設するという事であり機雷の除去方法についても英国との交流の中で検討し清国から鹵獲した旧式水雷艇の一部を機雷掃海の為の艦艇に改装し運用、来るべき日露開戦に備えて行く事になる。




