西郷隆盛の死と北清事変
少し遡って1898年、ハワイの地にて1人の男が最後の時を迎えつつあった。
西郷隆盛は史実であれば1877年に西南戦争を起こし自決していたがこの世界では政府に依頼を受け鹿児島及び佐賀の士族たちと共にハワイに渡っていた。
これまで西郷は私学校を設立したり自分自身でも開墾を行いハワイ開拓に従事しておりハワイに渡ってからは政治の舞台から一線を退いてはいたが連合成立の際には江藤新平と共に日本政府の調整に奔走していた。
この頃には港湾整備、海底電信整備も進み本土とも即座に連絡が取れるようになっており日本本土にも西郷隆盛危篤の報は伝えられた。
本土でも西郷隆盛危篤の報は速報で伝えられ日布連合各地の人々が西郷の回復を願った物の願いは届かずその年の9月に西郷は亡くなることになる。
この際ハワイ政府から開拓への貢献、及び連合成立の功績から最高位の勲章が死後追悼され日本からも大勲位菊花章頸飾従一位が死後追悼され合わせて日本陸軍元帥の他に共同陸軍元帥の位が追悼された。
西郷の葬儀は生前の本人の希望もありハワイに埋葬されることを望んでいた為ハワイ王国オアフ島にて国葬が営まれた。
諸外国からも英国、米国、独国、仏国の駐在武官は公使が参列し国葬終了後、オアフ島の海が望める高台に葬られた。
後に1900年にはホノルル市街地およびオアフ島、上野公園に薩摩犬を連れた西郷隆盛の銅像が建てられる事になる。
西郷の銅像が建てられた1900年、清国にて動乱が発生する。
後に北清事変や義和団の乱と呼ばれる事になるこの動乱は初期は何かと地域のトラブルなどに介入してくるドイツ人宣教師への反感から始まった山東省での活動であったが外国に良い感情を抱かない現地の役人が取り締まりを行わなかった事、反感を抱く現地住民たちが賛同して活動に協力していった事でその規模を急速に拡大し扶清滅洋、つまり清を助けて西洋を滅するを標語に義和団を名乗り直隷省に進出、現地の失業者などを吸収して更に規模を拡大させていった。
初期はキリスト教施設に限定していた攻撃もこの頃には鉄道や貿易商などありとあらゆるものを攻撃し始めていた。
遂には義和団は北京に入場することとなるがスローガンもありここでも清国政府は徹底した弾圧を行わないでいた。
その事が更に事態の悪化を招く事になる。
義和団が北京に入場した際に一部の清国軍は列強各国の公使館を包囲していたのだが一部が暴走し日本行使及びドイツ行使が殺害された。
この件で列強各国は清国政府に塘沽砲台の引き渡しを要求、未だ義和団に占拠されてもいない塘沽砲台の引き渡し要求及びこれまでの列強の態度に腑が煮え繰り返ったいた西太后は列強各国に宣戦を布告、ここに戦端が開かれる事になる。
英、仏、墺、伊、露、独及び日布が派兵、この際日英同盟締結前ではあったが青木共同外相から英国に対し要請があれば即座に大軍を派遣可能と通告、英ソールズベリー首相も列強を代表する形で派兵を要請するのであった。
日本も行使が殺害されているという事もあったがこれを機にロシアが満州に大軍を進出させる事を警戒しての事であった。
連合軍は天津から進撃する部隊と塘沽砲台から進撃する部隊とに分かれ北京に進軍を行ったが連合軍内でも北京に早期に入場して公使館開放を主張する日英とこれ以上義和団を刺激する事を恐る墺、伊、独、これを機に蒙古進出も狙う露などを各国の思惑が絡まり中々答えを出せずにいたが最終的には行使開放の為に早期の北京進軍を決定、北京に総攻撃を開始した。
その頃北京では日本軍の柴五郎砲兵中佐が指揮を取り籠城戦を行い連合軍到着まで耐え忍ぶ事になった。
連合軍は北京入場後戦利品獲得競争を行うが日本軍は柴中佐の情報もあり即座に戸部及び総理各国事務衙門に突入、291万両の馬蹄銀と32万石の玄米を抑える事に成功する。
その他の列強各国も美術品や馬蹄銀など各々獲得に動く事になる。
北京制圧後はドイツより一万人の増援が到着、周辺の掃討作戦を進めていく事になる。
ロシアはここぞとばかりに東三省を制圧、軍事占領下に置く事になる。
その後列強各国との講話交渉が開始され4億5千万両の賠償金を出兵各国への35年間で分割払いを行う事、ドイツ及び日本への清国政府からの殺害された公使及び公使家族への見舞い、武器弾薬の原材料の輸入禁止、公使館周辺の兵営設置権及び警察権の行使、塘沽砲台及び自由通行の妨げとなる砲台の撤去、北京周辺の海岸部の占領権を認めた北京議定書が締結される事になる。
後にこの代償は清国政府に重くなりかかり近代化の為の予算を抽出するのも難しくなり革命に発展していく事になる。
またロシア帝国1903年に賠償金支払いを免除する代わりに遼東半島の割譲を要求し清国政府に受諾させる事になる。
ロシアとしては未だに侮り難い力を持つオスマン帝国よりは列強の半植民地となる事が決定した清国を起点に更なる南下を進める意図があったがこれには日英両国が猛反発、割譲自体は履行されるが日英との関係が最悪な状態にまで陥る事になる。




