アメリカの限定的拡張路線
アメリカ合衆国は12年及ぶ内戦で荒廃し傷ついていた。
1870年代には壊滅的状況であり史実であればマニフェストディスティニーに基づいて太平洋に向かって拡張政策を進めていくがそんな軍備に使う金もなくひたすらに国内の復興と債務返済に追われていた。
リンカーンが暗殺された後大統領に就任したユリシーズグラントは現状においてはマニフェストディスティニーを履行しようとすれば国内の反発は免れないとして太平洋への拡張方針を事実上放棄、軸足を北米、中南米に定める事になった。
史実よりも遅れるがアラスカ購入を行った時も国内からの反発は史実以上に大きく上院においても一票差でなんとか可決された程であった。
グラント大統領は中米においての拡張方針としてスペインより再独立を果たしたばかりのドミニカに目をつけそこをアメリカに併合することを目指した物の党内の反発により失敗、そこで条約港としてサマナ州を租借し実質的な保護国にする事で妥協したが共和党内の反発は大きく後に党の分裂を招き南部の復興が失速していく事になる。
1880年代もひたすらに復興に励む日々となり史実と比べてもアメリカの経済成長の速度は遅れていた。
80年代にはメキシコ帝国政府への介入を目指すがフランスが強化に根を張っていた事、またメキシコが立憲制に移行した事から介入の機会を失い失敗する事になる。
1890年代にようやく復興もひと段落し工業化が再加速していく事になる。
この頃になるとアメリカはかつて侵略する事を目指していたキューバ及び蘭領ガイアナ、西インド諸島、デンマーク領西インド諸島に狙いを定めていた。
但しオランダ、デンマークと事を構えれば南北戦争時に悪化している英仏との関係が更に悪化する事が予想されたため将来的に購入する事を目指しキューバ、プエルトリコの制圧を目指していく方針となった。
だが国内ではまだ南北戦争終結から20年しか経っておらずあの戦争の事をトラウマに感じる人々も多くアメリカから開戦するのは難しい状況であった。
キューバ内でのスペインによるキューバ人への人権侵害問題などが発生してはいたがアメリカはアメリカでインディアン部族の掃討作戦、インディアン戦争が進行していたためスペインと開戦となった場合には陸軍の大規模な動員が必要でインディアン部族の掃討が遅れる事が予想されたためインディアン掃討終了まではとりあえず一旦静観する事になった。
そしてやっと1900年代に入りアメリカは世界有数の経済力を持ち始める事に成功し1905年には史実よりも遅れてインディアン部族の掃討を完了、キューバに狙いを定め本格的に侵略の準備を開始する事になる。




