制海権奪取
牙山を占領し朝鮮半島内の安全性を確保した日本軍は補給を安定させるべく黄海において清国海軍と決戦を行うべく艦隊を要遊させ清国海軍の捜索を行なっていた。
この時点で帝国海軍の戦力は史実の1.5倍以上の規模となっていた。
史実であれば三景艦を中心とした装甲艦1隻防護巡洋艦8隻、スループ艦3隻、コルベット艦2隻、砲艦4隻を中心とした艦隊であったが財政的余裕から装甲艦1隻、防護巡洋艦14隻、スループ艦6隻、コルベット艦2隻、砲艦9隻、通報艦2隻、旧式巡洋艦3隻の規模となっていた。
特にチリから巡洋艦エスメラルダを、アルゼンチンからベインティシンコ・デ・マヨを早期購入、秋津洲級を2隻、吉野型の同型艦を増備したことが大きかった。
また史実では台風に巻き込まれて沈没してしまった畝傍もトップヘビー気味を避けた設計を行い建造した事で沈没することを避けられていた。
また砲艦、通報艦も日本ーハワイ航路の警備連絡目的で増備されていた。
連合艦隊は伊東祐亨を司令官とし装甲艦1隻、防護巡洋艦14隻、通報艦1隻を主力とし残りの艦艇は旅順警戒や本土近海防衛に活用される事になる。
またこの時西京丸を仮装巡洋艦として改装し護衛に砲艦赤城、摩耶、コルベット艦比叡を当てがった観戦部隊も参戦していた。
この時北洋水師はあくまでも日本艦隊よりは有力な戦力を残存させておく事で日本に海からの圧力を加え陸戦で優位に立った後に講和を結ぶことを意図した李鴻章の作戦に従っており現存艦隊主義に基づき旅順に籠る事にしていた。
それに対して連合艦隊は清国北洋水師を撃滅しなければ安全に陸軍の兵士を輸送することが出来ず戦争の完全勝利は難しいと考えていたため早期に北洋水師を撃滅する事を目的としていた。
9月16日連合艦隊は休息のため一部の監視艦艇を残し朝鮮半島の長山串沖仮泊地にて休息していたが北洋水師出撃の報を受けて北洋水師撃滅のために出撃する事になる。
北洋水師はこの時増援の陸兵5000を輸送するべく旅順より出撃、陸兵を上陸させた後黄海にて演習を行なっていた。
北洋水師は最初は日本側に出撃したことを感知されている事にも気が付かず演習を続けていたが17日午前10時頃索敵中の連合艦隊と遭遇する事になる。
連合艦隊は速力に優れている吉野型2隻、浪速型2隻、秋津洲級3隻を第一遊撃隊とし、松島級3隻、千代田、扶桑、和泉、畝傍、アルゼンチン製防護巡洋艦(難波と命名)、通報艦八重山を主力部隊とし軍令部総長樺山中将が座乗する西京丸、赤城、摩耶、比叡は別働隊として参加する事になる。
連合艦隊は速射砲などを生かすべく第一遊撃隊が前衛、本体が後衛となる単縦陣で北洋水師に突入する。
対する北洋水師はリッサ海戦にてオーストリア帝国の提督テゲトフが実行した触角戦術を実行すべく右翼から防護巡洋艦を順に並べ中心に旗艦でもある定遠、鎮遠を配置した横列陣で海戦に突入する。
また北洋水師はこの直前まで英国から雇われた教官により横列陣による触角戦術を重点的に教育されていた事も影響していた。
また北洋水師は東方方面に要遊していた防護巡洋艦2隻、水雷艇2隻が別働隊として海戦に参加する。
後に黄海海戦と呼称される事になる開戦は日本艦隊の松島が最初に発砲した事で火蓋が落とされる事になる。
三景艦が搭載する巨砲で定遠、鎮遠を撃破する作戦であったが小さな艦に32センチの巨砲を無理して積んでいることもあり旋回性能が悪く発砲するたびに大きな振動があり命中させる事は叶わなかった。
それに対し第一遊撃隊は速力を活かし北洋水師に突入、速射砲を活かした攻撃を開始した。
北洋水師はセオリー通りに触角戦術を実行すべく日本艦隊に接近をかけるものの防護巡洋艦主体の日本艦隊の方が速力に勝り接近できず第一遊撃隊と本隊から十時砲火を浴びる事になってしまう。
海戦開始1時間で北洋水師の旧式巡洋艦2隻が撃沈、その他の艦艇も損害を受け始めてしまう。
そこで北洋水師は後方に展開する西京丸を中心とした後方部隊を攻撃し少しでも日本艦を撃沈すべく攻撃を開始するもその意図に気がついた本隊が迎撃、更に損害を増やす事になってしまう。
その頃第一遊撃隊は北洋水師東方に展開する別働隊を撃破すべく行動を開始、別働隊の巡洋艦2隻を大破に追い込み抵抗不可と降伏した巡洋艦2隻、水雷艇1隻を拿捕した。
その後再度本体と合流した第一遊撃隊は北洋水師に更なる追撃を仕掛け旗艦である定遠、同型艦鎮遠も撃沈できないまでも艦の上部構造物に大損害を与える事に成功する。
その間にも清国の防護巡洋艦3隻が豊島沖海戦の時と同様近代海戦史上数少ない敵前逃亡を図り旅順に帰還する。
その動きを見た北洋水師は総崩れとなり全艦が一斉に旅順を目指す事になる。
その後日本艦隊は追撃戦を行い更に巡洋艦1隻を撃沈する事に成功する。
北洋水師は旅順に逃走後損害が大きすぎたため旅順に引きこもる事になる。
また数隻の水雷艇は威海衛に脱出しこちらもまた港内に引き篭もる事になる。
連合艦隊は損害を受けなかった巡洋艦などを中心に旅順封鎖部隊を結成し旅順港の監視を強化していく。
この海戦において日本側が防護巡洋艦4隻を撃沈、2隻を鹵獲、水雷艇1隻を鹵獲、その他艦艇に大破から中破の損害を与え北洋水師の行動能力を奪う事に成功する。
対して日本側は旗艦松島が中破、吉野が小破した程度で後は損害という損害を受けずに勝利する。
海戦の結果日本側は黄海の制海権を確保、安定的に陸軍を輸送出来る体制が整う事になる。
だが日本側に大きな教訓も与える事になった。
これまでは青年学派思想に基づいて小型艦を多数揃え速射砲や水雷によって敵艦を撃沈する戦略を取っていたが速射砲では敵大型艦を撃沈する事は出来ず依然として脅威を残す事になった。
日本側は改めて戦艦には戦艦で対抗するしかないという事に気がつき戦時急増艦として富士型戦艦2隻をイギリスに発注する事になる。
この時日本軍は旅順封鎖を行いつつ戦略する事で北洋水師を完全に無力化するべく大山巌を司令官とし第1、第2、第4師団で第二軍を編成、金州に上陸、一路旅順攻略を目指して進撃を開始する。
10月1日に上陸後6日には金州城を攻略する事に成功する。
それと並行して第6師団を増援として送り込んだ第一軍が鴨緑江を渡河し九連城を攻略すべく行動を開始、日本軍を恐れをなした清国軍が逃走したため無血で占領する事に成功する。
第二軍は15日に旅順要塞に総攻撃を開始しその日のうちに旅順要塞を攻略、北洋水師の艦艇を丸々鹵獲する事に成功する。
北洋水師残存艦艇の戦艦2隻、装甲巡洋艦3隻、防護巡洋艦2隻、水雷艇多数を鹵獲し日本海軍の軍備拡張に役立てられる事になる。
その後日本軍は制海権完全に確保するべく第七師団を中心とした部隊で威海衛を攻略、残存した水雷艇も全て撃破した事で黄海の制海権を完全に掌握する事に成功する。




