日清開戦
日清間は朝鮮半島で勃発した甲午農民戦争をきっかけとして最高潮に達していた対立関係を最悪な状態にした。
日布連合は7月19日、5日間の猶予付き最後通帳を清国に突きつけ7月24日、両国は実質的な戦争状態に突入した。
翌25日早朝、日清両国の艦隊は朝鮮半島豊島沖にて会敵する。
清国艦隊は輸送艦を用いて朝鮮半島に陸軍の増援を派遣、2隻は入港し帰還したものの陸兵を積んだ最後の輸送艦の梅雨払いをすべく防護巡洋艦2隻が展開していた。
日本艦隊は通報艦及びスループ艦と合流すべく用遊していた防護巡洋艦4隻が海上に浮かぶ煙を発見、合流する艦隊と思い接近したところ清国北洋水師の2隻だった。
日本艦隊は接近したものの静観していた所清国艦隊が突如発砲、日清両艦隊は交戦状態となる。
数に勝る日本艦隊が清国艦隊を追い詰め、清国艦隊の一隻、防護巡洋艦広乙を座礁に追い込む。
広乙艦長は総員退官を命じた後爆破を命じるものの命を惜しんだ清国兵がが爆薬に火を付けずに逃走、広乙は史実と違い自沈に失敗する。
一方済遠は追跡する日本艦3隻を前に降伏をするものの日本側が短艇を派遣し臨検しないことをいいことに降伏したりそれを翻したりと逃走劇を繰り広げることになる。
またこのことを後続艦隊に連絡しなかった為後続の砲艦操江と英国乗船高陞が接近してくることになる。
逃走を繰り広げる済遠はそのまま後続を放置し逃走を続け逃げ切ることになる。
済遠の逃走劇は近大海戦史上唯一と言っていい敵前逃亡であった。
その後操江と高陞も逃走を図るものの速力に勝る日本艦隊に追いつかれ降伏することになる。
ここで一つの問題が起こることになる。
高陞は英国船籍でありこの時英国は日清開戦をまだ知らなかったのである。
この時後の連合艦隊司令長官を務める東郷平八郎が艦長を務める防護巡洋艦浪速が高陞の抑留を行うべく接近、国際法に則り手続きを行うものの船内において清国兵が狼藉を働き降伏できない状況になり東郷は撃沈を判断、水雷で撃沈を行う。
英国の船員は全員救助されるが清国兵は全員死亡することとなる。
英国は英国船籍の船舶が撃沈されたと世論が沸騰する事となりせっかく築かれた日英友好が破綻しかける所であったが英国内の国際法学者たちが新聞に
日本の行動は国際法を遵守した上での行動である。
と解説を載せた事で世論は収まり、国際法違反を犯した清国に対し圧力を掛けるべしとの世論が高まり逆に国際法を遵守した日本への評価が高まることになる。
豊島沖開戦に勝利後日本陸軍は占領した漢城府から出撃、牙山城に籠る清国陸軍撃滅に動く。
日本軍は進撃中安城の渡しにおいて清国軍の攻撃を受けるもののこれを撃退、成歓にある清国陣地を奪取する。
その後清国主力が居ると判断した牙山に進撃するも清国軍は敗走しており29日に牙山の占領に成功する。
牙山占領後の9月13日には補給の面や第5師団の本営が置かれる広島に宮中より大本営が移転、帝国議会も後に開催されることになり一時的に首都機能が広島に移転することになる。
また広島に大本営が移転前の8月には第5師団が釜山に上陸、第3師団も派遣され第5、第3師団をもって第1軍が編成され司令官には山縣有朋が任命されることになる。
この時第五師団長の野津道貫は清国軍南下の報を受けて動揺する朝鮮政府の動揺を抑えるべく北進を決定、上陸した第3師団の一部と共に進撃を開始する。
これに対し清国軍も軍を平壌に集結させ漢城奪還の構えを見せていた。
北進を終え平壌付近に到達した第5師団は包囲網を形成、包囲の完成をみて平壌に総攻撃を開始する。
各地で苦戦しつつも師団主力が総攻撃を開始、清国軍は野営準備を命じるものの一転して一部部隊が攻撃を停止、白旗を掲げて降伏の意思を示し、軍使の派遣を求める。
直後に雷雨が始まった為清国軍は平壌の開門を翌日とする旨を求めるものの野津師団長は脱出のための時間稼ぎと判断、より警戒を密とする旨を命令した。
21:00頃雷雨が止んだ隙に清国軍は平壌より脱出を開始、それに対して日本軍は猛攻撃を仕掛け清国軍を敗走させることに成功する。
この時日本軍は補給面において不安を抱えていたが清国が平壌に残した糧秣を用いることで補給の不安を解消することに成功する。
この時ハワイから動員されたハワイ王国第1旅団も到着、第1旅団は朝鮮半島警備で用いられることになる。
そして朝鮮半島内での陸戦に勝利した日本軍は本格的に制海権を獲得して戦争を優位に進めるべく黄海にて北洋水師との決戦に臨むことになる。




