日清講和
旅順、威海衛を攻略した日本軍は講和に向けて澎湖諸島、牛荘攻略を目指していく。
まず第一軍でもって牛荘を攻略、遼陽平原の敵を掃討する事で北京への圧力を加えるべく進撃を開始、新国軍の抵抗を受けるものの1日で攻略に成功する。
一方第二軍は奉天方面に進撃し満州と北京の連絡を遮断するべく奉天に進撃、こちらも抵抗を受けつつも奉天の占領に成功する。
澎湖諸島方面は第7師団から3個大隊を抽出し攻撃、これを攻略する事に成功する。
澎湖諸島は主戦戦から離れているものの戦後の台湾割譲を確実なものとするべく行われた作戦だった。
この時点で英国、イタリアから講和斡旋の連絡が来ており有意な講和とするべく第一軍、第二軍をもって直隷決戦の準備を進めつつ近衛師団を中心とした部隊で台湾の台北を攻略する。
この時日清両国間にて正式に講和交渉を開始すべくドイツの仲介で日清間の使節が交わされ第一回交渉が日本側からの希望で広島において開始するものの清国側が全権委任状を保有していない事を理由に決裂、清国側に改めて全権委任状を用意して交渉に望む事を要求した。
それを受けて今度は北洋大臣直隷総督李鴻章が全権委任状を用意し第二回会談に臨み第二回会談は山口県赤間関市、現在の下関にて行われる事になった。
日本側からは清国政府に対し
朝鮮国の独立を確認しこの内政に一切として干渉をしない事、またこの独立維持のために日本側に遼東半島を譲渡する事
軍費を日本側に償還する事
清国が現在諸外国と締結している条件と同じ条件の条約を締結する事
台湾島を日本に割譲する事
が条件として出された。
この際清国側からは即時の停戦の要望が出され日本側としても諸外国との衝突を避けるために受諾する事になる。
その後の交渉は日本が占領地を拡大している事もあり有利に進み史実では狙撃されてしまっている李鴻章ではあるがこの世界では競馬が強化されていた事もあり回避された。
この際日本が即座に講和交渉中は停戦を受諾した事は諸外国には好印象を与え特に清国に多大な権益を保持していた英国は日本が自国の権益を脅かす意図がない事を知り大いに安堵する事になる。
その後講和交渉は日本側の要求が概ね受諾され
台湾及び遼東半島の割譲
賠償金3億両を5年間にかけ分割して支払いを行う
蘇州、杭州、重慶を日本に開港し最恵国待遇を与える
3ヶ月以内の日本軍撤退
賠償金支払いを終えるまで日本軍による威海衛の占領
が講和条件として纏められ下関で締結される事になる。
講和内容は翌日には発表され日本国民は戦勝に大いに湧く事になる。
だが遼東半島の割譲は不凍港を狙うロシアの反発を招きロシア、フランスによる干渉を招く事になる。
史実では露仏両国に倣い干渉に参加したドイツであったが英国が極東の安定役としての役割とロシア、米国牽制役を日布連合に求めていた事もあり日本に対し好意的中立に立った事もあり積極的な干渉は避ける事になる。
日布連合政府はまだ余力を残しての戦勝ではあったが流石に露仏両国を相手にしての総力戦を戦い抜ける軍備はまだ無いため干渉を受け入れ遼東半島を清国に返還する事になる。
但し返還する代わりに遼東半島還付金として追加で一億両の賠償金を受け取る事なる。
これには英国が関与しており遼東半島を返還しても将来的にはロシアが占領する事が予想されたため日本に軍備を拡張させロシアの牽制役にしつつ大型軍艦を自国に発注させるべく還付金の大幅増加の圧力を掛けたのであった。
日清戦争は無事に終結した者の日本は干渉を受けてロシアの脅威を更に認識、臥薪嘗胆の思いで国力、軍備増強に取り組む事になる。
また日清戦争は日本軍にも大きな教訓を与える事になった。
まず本来は西南戦争で得られていた大規模動員及び補給に関する教訓であった。
戦争中陸軍は補給がギリギリになる事が多く特に初期の平壌の戦いでは清国軍が逃走して清国が残した糧秣が無ければあと2日で糧秣が付き士気に大きな悪影響を与える事になっていた。
戦争終盤も優勢に進撃し制海権を確保していた者の物資の補給問題はついて周り陸軍に補給の重要性を認識させる事になる。
大規模動員に関しては動員訓練を行なっていたものの実際に行うのは初めてであり想定よりも動員に時間がかかってしまっていた。
その為より迅速な動員を実現する為にも各師団の駐屯する中心都市に向けて鉄道の整備がより進んでいく事になる。
海軍においては青年学派思想及び日布間の連絡線を確保すべく防護巡洋艦及び砲艦などの整備を進めていたが黄海海戦において速射砲では敵大型主力艦を沈める事が出来ない事を再認識し極東において、主にロシア対策ではあるが一国で対抗可能な海軍力を整備すべく富士型2隻に続き戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を基幹とした艦隊の整備を進めていく事になる。




