帝国議会開催と日清対立
日布連合が成立した1890年、帝国議会が初めて開催される事になる。
第一回衆議院議員選挙は2月9日告示、7月30日投票というスケジュールで行われる事になる。
投票権があるのは満25歳以上、納税額が15円、現在でいう60〜70万円ほどの額を収めている男子と制限がかかっている制限選挙ではあったが日本でも選挙制度が開始される事となる。
これまで伊藤博文、黒田清隆、三条実美暫定内閣ときて山縣有朋内閣となっていたがこの選挙を受けて山縣は難しい舵取りを迫られる事になる。
議会においては自由民権運動側の民党側が圧倒的多数を占めていたからである。
また連合を結成したハワイでも帝国議会選挙が実施され西郷隆盛や江藤新平をアドバイザーとするハワイ自治党が5議席を獲得し議案を送り出す事になる。
山縣内閣は軍備に予算の1割をさきつつ国内開発やハワイとの統合予算を割いていく事になるが民党勢力の反発などもありなかなか予算を成立させられない状態が続く事になった。
最終的には妥協案が成立し予算が成立するものの山縣有朋や松方正義などの中では政党政治への不信感が高まっていく事になる。
それに対して伊藤博文や黒田清隆は建設的議論を出来る政党を結成し民党勢力以外の政治勢力を育成していく事で健全な議会制民主主義を育もうと考えていく事になる。
そう言った議会開催の混乱や影響はありながらも国内開発は進展していく。
1891年には呉海軍工廠の拡張が開始され大型軍艦に対応できるように拡張が行われる。
また北方警備の要である大湊にアクセスできる大湊線の着工準備が始まる。
翌年には山陽本線が下関まで到達、瀬戸内から関東が鉄道で繋がる事になり瀬戸内に進出する民間企業が増加、工業化が進展する事になる。
また九州以西への陸軍の派遣が容易となり陸軍の外征能力が向上する事となる。
またこの頃には九州方面の鹿児島本線門司ー鳥栖、長崎本線鳥栖ー肥前山口、佐世保線の肥前山口ー佐世保間も開業し東京ー九州アクセスがかなり改善される事になる。
史実では西南戦争や佐賀の乱による予算圧迫で遅れた鉄道整備ではあるが上記の反乱がなかったため予算的余裕から、対清国の思惑から東京ー佐世保、北方警備の観点から上野ー青森までの路線が開業する事になる。
これと並行して各地の一部支線も整備され大府ー武豊間の武豊線、広島ー宇品間の宇品線なども整備されていく事になる。
また大船ー横須賀間の横須賀線も早期に開業する事になる。
国内の開発と並行して1890年には今上天皇(明治天皇)名で教育勅語を発布、教育に関する基本方針を固めていく事になる。
1891年には濃尾平野にて濃尾地震が発生、M8を記録し濃尾平野にかなりの被害をもたらすが1888年の会津磐梯山噴火と共に近代日本の地質学などの発展に寄与していく。
そして対清関係が悪化してるいる中1892年、大津にてロシア皇太子ニコライが切り付けられる大津事件が発生する事になる。
犯人は滋賀県警の巡査津田三蔵で明確な犯行理由は不明ながら日本とロシア間の外交問題に発展した。
駐日ロシア行使は日本政府に死刑を強硬に主張し一部元老たちも死刑を主張するもの大審院長児島惟謙が通常の刑法の規定に従った場合は無期懲役と判断を下し司法の独立を守り抜いたことで諸外国から日本の近代化法整備が海外から評価される事になる。
同年には栃木県足尾の足尾銅山からの鉱毒が問題となり田中正造が国会にて質疑を行い日本の急速な近代化の問題点も露呈する事になる。
またこの年には鉄道庁官井上勝が提唱した鉄道敷設法が交付、中央本線、篠ノ井線、高山本線、北陸本線、信越本線、奥羽本線、総武本線、常磐線、予讃本線、土讃本線、日豊本線などの主要地域を結ぶ鉄道路線の建設が計画され中でも北陸本線、信越本線、奥羽本線は日本海側を結び北方警備の観点から大急ぎで建設が進められていく事になる。
1893年は大本営条例が交付され戦時における帝國陸海軍及び連合国家であるハワイ王国軍の統一指揮を行う組織として大本営を設置することが名文化された。
但しこの時点で帝国憲法に記載のある統帥権が後々組織の運営に支障をきたす事が想定され統帥権及び軍務大臣現役武官制の改正を目指す事が元老たちの間で議論される事になる。
本格的な改正は日露戦役の後となるが軍部を内閣が統制する英国型を目指していく事になる。
そしてこの翌年朝鮮半島では日清間の緊張状態がピークを迎える事になる。
朝鮮半島内にて役人が税を横領しそれに抗議した農民が捕縛されたことをきっかけに東学党という新興宗教組織が挙兵、これに対し鎮圧する事が出来なかった朝鮮政府が清王朝に出兵を要請、それに対し日本政府も清王朝側に撤兵を要求、清王朝側に要求を無視された為日本側も天津条約に基づき出兵を通告し出兵した。
清軍は牙山付近に駐留し日本軍は邦人保護のために仁川より上陸し漢城付近に駐留し両側の睨み合いが開始される事になる。
この状況に慌てた朝鮮政府は反乱軍と和解を行いなんとか反乱を収束させ日清両国に撤兵を申し入れるが両国共に拒否、日本は清王朝に対し朝鮮の改革及び独立を共同で保障する事を提案、これに朝鮮半島を中立化させロシアとの防波堤にしたい英国の思惑も重なり英国も申し入れに参加するものの清王朝は拒否、日本政府は朝鮮政府に清王朝との属国関係を明示した条約の破棄並びに国内改革について行う旨の返信を3日以内に回答をする事を求め暗に朝鮮が独自に駐留する清軍を駆逐出来ないのであれば日本軍が駆逐する旨を匂わせていた。
朝鮮政府は要求を拒否したため帝国陸軍第9旅団が王宮に突入、高宗王を拘束し大鳥公使立会の元大院君を擁立し改革路線を目指す政府の樹立を要求、高宗王が受諾したため新たに大院君政権が成立、大院君より清軍を撤退させて欲しい要請を受ける。
そして7月19日日本政府は清政府にこれより以後適切な処置をとる事を求め朝鮮半島に増援を送った場合は脅迫と見做すという最後通帳を送りつける事になる。




