国内開発と日布連合王国へ
婚姻発表後も日本では国内開発が進んでいた。
婚姻発表を行なった1882年には山陽幹線が先行着工、室蘭港の更なる整備が行われる事になる。
翌年には呉軍港の建設が開始、呉軍港接続の呉線の建設が開始される。
1884年には北九州地域の工業化が開始、筑豊鉄道が開設される。
翌年には内閣制度が開始される。
この時三条実美と伊藤博文どちらが内閣総理大臣に就任するかで議論となる。
身分で言えば公家の生まれで公爵であり伊藤博文は貧農の生まれで武士になったのも明治維新の直前であり三条実美が優勢であった。
但し大久保利通亡き後明治政府の舵取りを行なっていたのは伊藤博文であり実績では大きな差があった。
太政大臣にかわり内閣制を引く際の宮中会議においては誰もが黙り込んでしまう中井上馨が赤電報が読めるやつじゃないと今の時代は舵取りが出来んと発言した事で伊藤博文が初代総理に、三条実美が内大臣に就任する。
初代内閣成立事にハワイとの友好や北方警備の観点から国家戦略が海軍優先、北方警備、鉄道網の拡張、産業育成が中心となっていく。
またこの時点でハワイに日本移民が増加している事もありハワイ王家の中では日本と運命共同体となるべしとの意見が強まり後の日本ハワイ防衛協定締結につながっていく事になる。
またこの時に北方警備の観点から北方警戒の拠点となる海軍拠点を作るべく候補地を大湊と定め調査を開始する。
1886年には東北本線が仙台に到達、仙台以北の建設も急ピッチで進んでいく事になる。
北海道においては小樽ー小樽築港、札幌ー千歳ー苫小牧ー室蘭の鉄道構想が動いていくことになる。
この年には清国北洋艦隊の定遠、鎮遠が来日長崎にて騒乱をお越し国内において反清感情が高まることになる。
また帝国海軍の増備計画を推進しお雇い外国人としてフランスから招聘したルイ=エミール・ベルタンが推進していたフランスの思想青年学派思想に基づいた拡張が行われていくことになる。
またハワイとの間には日布防衛協定が締結される。
この際にも帝国政府は英国、仏国、米国への根回しを欠かさず英国は米国牽制、太平洋の安定化に寄すると判断し賛成、仏国は自身の権益を害することがない事を確認し黙認、米国も太平洋進出を狙っていない事もあり黙認する事になる。
ここまでの時点で日本はハワイを植民地とする意図がなく、経済的にも解放する意思があり太平洋の安定に寄与する事を確認した英国は後に日布連合形成の際にも積極的賛成の立場に立つ事になる。
また帝国政府もハワイとの連合を考慮し始めており防衛協定締結の他にも将来的な連合形成の黙認、外交的承認を求めていく事になる。英国にはハワイ王室、現地自治政府、現地法の維持を約束、英国海軍のホノルル入港、石炭補給の権利を約束、場合によっては修理施設の利用も許可する事となる。
その他にも太平洋進出を狙うドイツ、中米権益を狙う米国への太平洋側からの牽制になる事を力説、特にドイツの太平洋進出の防波堤となる事を約束した。
英国商人への通商上の優遇も約束し英国商船の自由寄港、英国企業の権益保護も約束する事となる。
またこの時期カラカウア王が再度日本と英国を訪問、日本政府には将来的な連合形成の時期の調整、ヴィクトリア女王にも日本との連合形成の説明に向かう事になる。
1887年からは北海道開発が加速、石炭から漁業、林業が開発されていく。
北海道炭礦鉄道も設立され史実以上の路線網の開発が進められていくことになる。
海軍は大泊に補給港の整備を開始、北方警備を万全の構えとしていく。
翌年には東北本線仙台ー青森間が開業、史実より3年早い開業となる。
大湊の軍港化も本格的に開始、野辺地から大湊間の大湊線計画も開始する。
1889年には大日本帝国憲法が施行される事になる。
帝国憲法は史実で有ればドイツ憲法を参考にしているが憲法の研究を重ねていた伊藤博文はハワイとの連合を見据え明治天皇を連合君主としつつ、ハワイを自治王国とする英連邦式の憲法を参考にして憲法を起草、連邦国家としての大日本帝国憲法が誕生する事になる。
そして大日本帝国憲法施行の翌年、日本ハワイ連合の成立が発表される。
英国は事前の根回しもあり外交的には承認、成立の翌年に英国とハワイに関する諸条約を締結する事になる。
アメリカは懸念を評しつつも外交的には承認、フランスも英国、米国の承認もあり承認する事になる。
唯一ドイツは反発するものの英国が太平洋に艦隊を展開する構えを見せ不承ながらも承認する事になる。
またこの時点から始まった日英協調外交により日清戦争後に史実よりも早く英国は対独、対露を目的として日本と東アジア太平洋地域での更なる協調を模索する事になる。
日本もハワイとの連合により横浜、神戸、ホノルル間の海運が成長していき、国家戦略も大陸重視から太平洋重視の海洋国家へと大転換する事になる。




