維新諸改革
ここでまた一度目を日本に戻すことになる。
明治政府は戊辰戦争に勝利後国内の近代化を進めるために急速に様々な改革を推し進めていく事になる。
戊辰戦争が終結してすぐの1869年明治政府は版籍奉還を実施、各藩が所有していた人民と土地を朝廷(新政府)に返還を実施させる。
この時各藩主の抵抗が予想されたため目的と意義はぼかされていたがこれにより明治政府が中央集権的な国家を作る基盤が形成された。
また翌年には日章旗が国旗と定められ新貨条例が設立し円が日本の通貨単位となる。
その他にも日清修好条規が締結され開国後初の平等な条約が外国と締結される。
それと同時に解放令を定め四民平等が謳われることになる。
そしてこの年の1番の変化は廃藩置県を断行した事だろう。
これに幕藩体制の元で成立し明治改元後も存在していた藩が解体されて全て政府直轄の県または府に置き換えられる事になる。
この際に廃藩置県を断行するために設立された御親兵が後の帝国陸軍の基礎になり御親兵は後の近衛師団になる事になる。
またこの時御親兵創設を建白した板垣退助が後に陸軍大臣から帝国陸軍設立の立役者として表彰される事になる。
そして廃藩置県を断行して国内情勢が安定したことで外国との条約改正のために岩倉具視を使節団長としてアメリカに使節団が送られる事になる。
この使節団は当初の目的である条約改正には失敗するが西洋文化に触れ国内の文明開花を進める意味では大きな意味を持つものとなった。
また留学生たちも連れて使節団は渡米しておりこの留学生たちが後の近代化を引っ張っていく事になる。
そしてこの翌年には兵部省を廃止し陸軍省、海軍省を設置、後の東京師範学校の設置、東海道本線の基礎となる新橋ー横浜間の鉄道の開業、琉球藩を設置し琉球国王を廃止する。
琉球国王を廃止した事で後々清王朝と外交問題に発展するのは別の話で。
そして岩倉使節団が出発した後に西郷隆盛を中心として征韓論が高まる事になる。
征韓論は端的に言えば王政復古を果たした日本の書面を受け取らなかった朝鮮を征伐しなければならないという論争であった。
この当時の日本には外征を行う余裕がなく国内開発に注力すべきという勢力と西郷隆盛を筆頭とした何としても征伐を行うという勢力に分かれていた。
結局この論争は岩倉具視が帰国するまでお預けとなるが岩倉帰国後に征韓論は征伐を行わない事となり西郷隆盛などが明治政府を下野することになる。
またそんな論争の中でも銀行令により国立銀行を設置、富岡製糸場の設置などが行われた。
またこの年現在の福岡県北九州市に製鉄所が設置されることになる。
八幡製鉄所と名付けられたこの施設は史実では日清戦争の賠償金により設置されることになるがこの世界では樺太開発などで得た予算的余裕や資源などを用いて設置されることになりこれにより日本の重工業化は史実より進展することになる。
そしてこの翌年の1873年明治政府は徴兵令を布告、国民皆兵の基礎が作られることになる。
但し徴兵令は事前に成立していた戸籍法によって制作された壬申戸籍があったから施工できたものであり明治政府の近代化政策が身を結んでくることになる。
またそれと同時に地租を改正し明治政府の財政安定に貢献することになる。
これらの改革の最中に事件が起きることになる。
岩倉具視の帰国である。
岩倉具視が帰国したことで新政府内で否征韓論派が主流となり西郷隆盛などの征韓論派が政府から下野することになる。
史実では西南戦争で散った西郷隆盛であるがこの世界では別の道を歩んでいくことになる。
またそれと同時に内務省が設置され国内行政が一元管理されゆくことになる。
この翌年には板垣退助より民撰議院設立建白書が提出され自由民権運動が始まることになる。
それと同時に漂流した宮古島島民が虐殺されたことに対する報復として台湾に出兵を行う。
この台湾出兵も征韓論との矛盾で政府内が荒れることにはなるが…………
そしてこの年本来であれば佐賀の乱が発生することになるが江藤新平がある話が政府からやってきた西郷隆盛より軽挙妄動を何としても抑えるようにと言われ不平士族をなんとか抑えたことにより反乱の勃発は防がれる。
また立憲政体の詔書が発布され議会の設立に向けて道が整えられることになる。
この年には江華島にて武力衝突が発生、日朝修好条規が結ばれるきっかけとなる。
さらに屯田兵制が施行され北海道、樺太の更なる開拓を進めつつ北方警備のためにいざという時は動員できる兵力を確保することになる。
この翌年には廃刀令、秩禄処分が行われて士族反乱が勃発しまくり明治政府の財政を圧迫することになるがこの世界では西南戦争の勃発が塞がれることになる。
これは西郷隆盛のある動きがきっかけとなってゆく。
これは日本とハワイの関係が史実と違うことがきっかけとなっている。
次回から大幅に歴史が変化していきます




