第8話 神の島の気配
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大三島インターチェンジを降りて一般道へ入ると、窓の外の灯りは目に見えて少なくなった。
まばらな街灯が、窓ガラスに短く映っては消えていく。
岡山の街の暗さとは違った。海と山がすぐ隣にあり、そのあいだから滲むように闇が満ちていた。
道沿いには、もう店じまいをした小さな商店や、低い石垣に囲まれた家がぽつぽつと続いている。
軒先に干された網や、軽トラックの荷台に積まれた収穫用の籠が、ヘッドライトに一瞬だけ浮かび上がっては後ろへ流れていった。
観光地というより、人が毎日暮らしている島だった。
その暮らしの奥に、古い社が息づいている。
窓を閉め切っていても、空調の風に潮と湿った土の匂いが混じっていた。
後部座席で背を丸めている澪の呼吸は、橋を渡っていた時よりも幾分か落ち着いているようだった。
一方、助手席の直弦に見えているものは、岡山にいた時とはまるで違っていた。
橋の上で見えた網の目は、島へ入った途端、さらに密度を増した。
試料から伸びる太い糸の周囲に、毛細血管か細根のような青白い糸が幾重にも絡みついている。
そのすべてが、前を走る暗い島道の先――島の中心へ向かって、ひとつの流れに集まっていた。
大山祇神社が近づくと、三島が前方を指し示した。
「この先を左へ。表参道ではなく、裏手から入ります」
運転席の難波が「分かりました」と短く応じ、ミニバンは参道へ向かう道を外れた。
表側からなら、鳥居をくぐり、参道を進み、拝殿へ向かうのだろう。
だが今は、意識の戻りきらない澪と、仮安置を急ぐ試料を抱えている。
参拝者の動線を通るわけにはいかなかった。
車は木々に囲まれた裏手の関係者用動線へと滑り込んだ。
エンジンが切られ、ドアが開く。
外気に触れた瞬間、直弦は小さく息を呑んだ。
長い時間を吸い込んだような重さが、空気の底にあった。
「清成か」
砂利を踏む音とともに、暗がりから一人の男が姿を現した。
白衣に袴姿の、白髪交じりの神職だった。
六十は越えているはずだが、背筋はまっすぐで、足取りにも緩みがない。
皺の深い顔には、この場を背負ってきた人間の重みがあった。
大山祇神社の権宮司、村上雅信だった。
「……話は聞いている」
村上は三島の顔を見たあと、視線をそのまま澪へ、直弦へ、そして荷室の方へと滑らせた。
「まさか、本当に持ち込んだのか」
低く抑えられた声から、拒絶の意志がはっきり伝わってきた。
「事態が急を要しました」
三島は短く頭を下げた。
「澪の状態が芳しくありませんでした。それに、あの物質を遠くへ離しておくリスクも、無視できませんでした」
村上の目が、わずかに細くなった。
「澪を戻した判断はよい。だが、その箱は別だ。まして、事情も知らぬ外の者まで連れて来るとはな」
村上の目が、真正面から直弦を捉えた。
要るか要らないかを見極める、冷えた目だった。
三島が一歩だけ前に出る。
「彼は、ただの付き添いではありません。岡山で澪の急変を一時的に抑えたのは、彼……越智さんです」
「……ほう」
村上は直弦から目を逸らさなかった。
「君が」
直弦は軽く頭を下げた。
「平原化学の越智です」
「そうか」
村上はそれだけ言って、もう一度荷室に目を向けた。
「澪は社務所の奥で休ませろ。その箱は本殿に近づけるな。社務所裏の蔵へ入れろ。それより先は、まだ許さん」
言い切ったあとも、村上の表情は動かなかった。
直弦は反論しなかった。
自分たちは、この土地にとって招かれざる客に過ぎない。
「……岡山にいた時よりは、ずっとましです」
ミニバンから降りて境内の土を踏んだ澪が、ぽつりとこぼした。
強張っていた肩の力が抜け、浅かった呼吸がふっと深くなった。
たしかに、岡山にいた時よりは落ち着いて見える。
だが、直弦の目には、楽になったようには見えなかった。
澪の背中に浮いている結び目は、薄れるどころか、よりはっきりと青白い光を帯びて脈打っている。
この土地が、彼女を楽にしているわけではない。
外では曖昧になっていた異常の輪郭が、ここへ来てはっきりしている。
「楽になっても、まだ終わってません」
直弦は、少しだけ安堵を見せかけた澪に冷や水を浴びせるように言った。
澪は振り返り、微かに苛立ったような、しかし不安を隠しきれない目で直弦を睨んだ。
「分かってます。……でも、ここは私の場所だから」
それ以上、部外者に踏み込まれたくないのだろう。直弦は何も言わず、荷室から保護ケースを降ろす社員の横へ移動した。
本殿や宝物館へ持ち込むことを禁じられた試料は、社務所のさらに裏手、古い祭具などを一時保管するための蔵へ仮安置されることになった。
台車に乗せられたケースの横を歩きながら、直弦は暗い境内の石畳を進む。
その途中で、足が止まった。
「どうしました」
前を歩いていた三島が振り返る。傍らにいる村上が、不審そうに眉をひそめた。
「……ここじゃない」
直弦は足元の玉砂利と、その数メートル先にある蔵の黒い扉を交互に見た。
「何がですか」
三島の問いに、直弦はうまく言葉を見つけられなかった。
「ここは、ケースの中のものが、引かれている場所じゃない。あの蔵のあたりは、流れが薄い」
直弦には見えていた。
境内はどこも同じではない。
糸が濃く集まる場所と、不自然に薄い場所がある。
蔵の周りは、流れが薄かった。
村上が、不快感を露わにして鼻を鳴らした。
「外の者が、神域の何を知ったような口を利く。得体の知れないものをこれ以上奥へ進ませるわけにはいかん。蔵へ入れなさい」
直弦は反論しなかった。彼らの理屈は正しい。管理できないものを、これ以上奥へ入れるべきではない。だが、事実として、あの試料の糸は蔵など指していなかった。
台車が蔵の奥へ押し込まれ、重い引き戸が閉められる。
村上たちは戸締まりと確認に回り、三島も一度その場を離れた。
直弦だけが、夜の境内に残った。
静寂。
風が木々を揺らす音しか聞こえない。だが、直弦の視界はひどく騒がしかった。
境内の古木の根元にも、玉砂利の下にも、石畳の継ぎ目にも、太く古い青白い糸が走っていた。
それはまるで、土地の底に広がる巨大な根のようだった。
岡山の研究所で見た、空間を無理やり裂こうとする糸とはまるで違った。
ここの糸は、この土地そのものに溶け込み、静かに息づいていた。
直弦は、自分の見方がどこかでずれていたのかもしれないと思い始めた。
自分が見てきたものは異常などではなかったのかもしれない。
それは、本来この土地にあった流れの、一端に過ぎない。
異常なのは糸ではなく、それを外の理屈だけで測ろうとしている自分たちの方かもしれなかった。
「……あなたには、ここで何が見えていますか」
背後から声をかけられ、直弦は振り返った。
蔵の戸締まりを終えた三島が、闇の奥を見つめたまま静かに尋ねてきた。
村上は澪の様子を見に行き、この場には二人だけだった。
直弦は少し迷った。だが、この気配の前でごまかしても仕方がない。
「岡山では一本だったものが、ここでは無数に見えます。そしてそのすべてが……」
直弦は視線を上げ、夜の闇に沈む境内を見渡した。
「神社の奥へ沈んでいる」
三島は目を伏せ、重く息を吐いた。
「やはり」
三島の横顔は、見えない重圧に耐えるように硬く引き締まっていた。
「なら、やはり本殿だけでは足りません」
直弦は答えず、社殿の奥を見た。本殿ではない。もっと古い、もっと深い場所がある。
夜の境内は静まり返っていた。
だが直弦の目には、澪の背中から伸びる糸も、蔵に仮安置された試料からの糸も、境内に張り巡らされた無数の古い糸も、すべてが同じ場所へ収束していくのがはっきりと見えていた。
社殿の影を抜けた、その先。
山の斜面に沈む深い暗がり。まだ誰も口にしていない、踏み込むべきではない場所の気配。
大山祇神社には着いた。
だが、辿り着くべき場所はここではない。
自分たちはまだ、入口に立っただけだ。
そう思った瞬間、冷たいものが背中を這い上がった。
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