第7話 橋を越えて
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午後二時過ぎ。
平原化学のロゴが入った黒いミニバンが、吉備スマートインターチェンジから山陽自動車道へ合流した。
運転席には、志保が手配した研究開発管理部の難波が座っていた。
助手席に越智直弦。後部座席には澪と三島。最後尾の荷室には、厳重な保護ケースに収められたあの試料が固定されている。
車内では、ほとんど会話がなかった。
タイヤが路面を拾う低い音だけが、途切れず続いている。
昼時はとうに過ぎていたが、誰も食事のことなど口にしなかった。
直弦は前を向いたまま、ルームミラーの端に映る後部座席を見た。
荷室の試料から伸びる太い糸。
後部座席で肩をすぼめている澪の背中に残った結び目。
車が西へ進むにつれて、その二つがぴたりと同じ方角へ揃い始めているのが、直弦には見えていた。
少なくとも、進む方角は間違っていない。
だが、それで安心できるわけでもなかった。
「……背中のあたり、熱を持ってませんか」
直弦は前を向いたまま、後部座席へ声をかけた。
「……なんで分かるんですか」
即座に、警戒したような声が返ってきた。
「あれだけ無理に力の向きを曲げたんです。熱を持ってもおかしくないですから」
「……だったら何ですか」
「痛むなら、無理に姿勢を保たずにシートに寄りかかった方がいい。身体に余計な力が入ると、また向きが乱れます」
「……本当に、人のことを観察対象としか見てないんですね」
「今は、見ていない方が危ないです」
言葉は噛み合っていない。
それでも、救護室で見せたあの危うさに比べれば、言い返せるぶんまだよかった。
三島は二人の不器用なやり取りに口を挟まなかった。
ただ静かに、窓の外の景色を見ていた。
◇
午後三時。
ミニバンは福山サービスエリアに入り、駐車場の端に停まった。
「少し、外の空気を吸いましょう」
三島の提案で、運転手を含めた全員が一度車を降りた。
フードコートから漂う醤油と出汁の匂い。
土産物売り場をのぞく家族連れの声。
コーヒーを片手に談笑する長距離トラックの運転手たち。
ありふれた休憩所の匂いとざわめきが、かえって自分たちの場違いさを浮き立たせていた。
三島が温かいお茶と、小さなおにぎりを買ってきた。
澪は駐車場の隅にあるベンチに座り、それを受け取ったものの、ほとんど口をつけようとしない。
澪はお茶を両手で包んだまま、何度も胸元へ視線を落としていた。
まだ、身体の中に何かが残っているような顔だった。
直弦は一人、ミニバンの後ろに回り、リアガラス越しに荷室を確認した。
固定された保護ケースの小さな観測窓から、ゲルの層がかろうじて見える。
新たな亀裂はない。
だが、内部で反発しようとする圧は、さっきよりも強くなっていた。
「少しでも口にしてください」
直弦はミニバンから離れ、ベンチに座る澪を見下ろして言った。
「……食欲がないんです」
「食欲の問題じゃありません。カロリーと水分が切れたら、身体が持ちません。燃料だと思って飲み込んでください」
「……命令しないでください」
澪は忌々しそうに直弦を睨みつけた。
それでも、不承不承といった様子で、おにぎりを少しだけ口に運んだ。
直弦はそれ以上何も言わず、少し離れた植え込みの脇に立つ三島の横へ歩み寄った。
三島は、人の流れから外れるようにそこに立っていた。
「……持ちそうですか」
三島が、前を向いたまま低い声で尋ねる。
「分かりません。でも、急いだ方がいいのは確かです」
直弦も、三島の方を見ずに答えた。
「この先、海に近づくにつれて、あれがどう動くか読めません」
三島が静かに目を伏せる。
「あの島の中で起きている揺らぎが、外の理屈でどう扱われるものなのか。……私は、少し見誤っていたのかもしれません」
直弦は何も返さなかった。
誰の理屈が正しいのか、まだ誰にも分かっていない。
◇
午後四時前。
福山を越え、ミニバンは尾道方面へ近づいていった。
換気口から入る空気に、微かに海の匂いが混じった気がした。
眼下の景色が開ける。
鈍く光る瀬戸内海の水面と、そこに浮かぶ島々の影が視界に入ってきた。
島影は思っていたより近く、海の上にいくつもの陸が続いているように見えた。
陸と海の境目が、幾重にも折り重なっている。
後部座席で、澪の表情がわずかに変わった。
痛みに耐えるような強張りが少しだけ緩み、代わりに何かを探るような顔つきになる。
「……近づいてる」
澪がぽつりと漏らした。
「何にですか」
直弦がルームミラー越しに尋ねる。
「分からないです。でも、岡山にいた時よりは……ましになった気がします」
まし。
その言葉の通り、澪の背中にある結び目の歪みは、岡山にいた時とは少し変わっていた。
引き裂かれる痛みではない。
どこかへ引かれる感覚に近い。
午後四時を回った頃、ミニバンは西瀬戸自動車道――しまなみ海道へ入った。
最初の橋へかかり、車が海の上へ出た瞬間だった。
「――――」
直弦の視界が変わった。
岡山では、試料から伸びる一本の太い糸にしか見えなかったものが、ここでは違った。
島から島へ。
海峡をまたぎ、海中を這い、空を縫うようにして、無数の細い青白い糸が張り巡らされていた。
まるで、網の目のようだった。
岡山の地下で手当てしたあの石は、この瀬戸内を走るもっと大きな流れの、ほんの一部でしかなかった。
直弦は、事態の大きさに一瞬息を呑んだ。
そして、その無数の糸の網は、すべて一つの場所に向かって収束している。
ミニバンが橋を渡るにつれ、澪の呼吸がわずかに速くなった。
背中の結び目が反応している。
だがそれは、拒まれる痛みではなく、もっと大きな流れへ引き込まれていくような、共鳴に近かった。
「もう少しです」
三島が静かに言った。
橋の上を走る車内で、澪が窓の外の海を見つめながら、不意に口を開いた。
「越智さんって、昔からそうなんですか」
「何がです」
「人のこと、すぐ中まで見ようとする感じ」
直弦は少しだけ言葉に詰まった。
「……仕事なので」
「そういう言い方、あんまり好きじゃないです」
「分かってます」
車内に少しの間が落ちた。
タイヤの音と、橋を通り抜ける風の音だけが聞こえる。
「でも」
澪が、窓の外を向いたまま、本当に小さな声で付け足した。
「さっきは、助かりました」
直弦は前を向いたまま、小さく息を吐いた。
「それはもう聞きました。二度も言わないで大丈夫です」
「……本当に一言多いですね、あなた」
澪は呆れたように息を吐いた。
信用と呼べるものには、まだ遠い。
それでも、救護室で向けられたあの剥き出しの拒絶とは、少しだけ違っていた。
◇
西へ傾いた陽が瀬戸内の海をオレンジ色に染める頃、ミニバンは大三島インターチェンジを降りた。
車が島道へ入った瞬間、直弦にははっきりと分かった。
海上に張られていたあの無数の糸の網が、この島の暗がり――深い森と山に抱かれた、古い社のある方角へと一斉に束ねられ、沈み込んでいる。
ここだ。
そう確信した時、後部座席で澪が小さく息を呑む音が聞こえた。
それは痛みではなかった。
身体が先に、この島を覚えていた。
「……帰ってきた」
誰に聞かせるでもない澪の呟きが、直弦の耳にも届いた。
彼女の背に残る結び目と、荷室の試料から伸びる糸は、迷いなく、この島の奥へ引かれていた。
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