第6話 行くべき場所
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大山祇という名が出た瞬間、救護室の誰もすぐには口を開かなかった。
澪はベッドの上に座り、浅い呼吸を繰り返していた。
顔色は少し戻っている。
けれど、胸元を押さえる手はまだ離れない。
何かが身体の奥に残っている。
澪は何度も自分の胸のあたりへ視線を落としていた。
直弦は少し離れた壁際に立ち、黙って澪の背中を見ていた。
さっきのように崩れ落ちる気配はない。
だが、直弦の顔に安堵はなかった。触れたからこそ分かってしまったことがある。
結び目はほどけていない。
試料から続く太い糸も、澪の背中から南西へ向かって伸びるさらに太い糸も、そこにあった。
直弦の視線に気づいた澪が、嫌そうに顔をしかめた。
「……まだ苦しいですか」
直弦が尋ねた。
「……平気、とは言いません」
澪が警戒するように答えると、直弦は小さく頷いた。
「そうですか」
「……それだけですか」
澪の言葉には、まだ棘があった。
直弦は、少しだけ返事に遅れた。
「無理はしないでください」
「……言われなくても」
会話はそこで途切れた。互いに歩み寄ろうとする気配はない。
ただ、最悪のところは抜けた。
その事実だけが、二人の間に残っていた。
救護室の隣の臨時会議室では、張り詰めた空気の中、協議が続いていた。
「これ以上、外部の人間を研究所に留め置くわけにはいかん」
桐野は、資料の端を指で叩いた。
「研究施設内で高校生の体調悪化が起きたんだ。すぐに医療機関へ搬送するのが筋だろう。試料は試料、人は人として切り離して処理すべきだ」
「搬送中に悪化した場合、誰が責任を取るんですか」
真鍋はこめかみを押さえながら反論した。
「通常医療で処理できるかも分からないんですよ。病院に放り込んで悪化したら、県にも説明がつきません。外に漏れれば、うちの管理体制まで問われます」
桐野は安全を、真鍋は対外説明を見ている。
どちらも間違っていない。
だから、話が進まない。
三島は静かに二人のやり取りを聞いていたが、低い声で言った。
「通常の医療機関へ搬送して、何が起きているか説明できるとお考えですか」
桐野が口を閉ざす。
「もちろん、必要な処置は受けさせます。ただ、あれが病院で済むものとは思えません」
「病院に送っても、切れません」
それまで黙っていた直弦が、口を挟んだ。
全員の視線が彼に向く。
「でも、ここに置いていても、ほどけません。今の彼女は、辛うじて持たせているだけです。大山祇へ戻すしかありません」
その場で結論を出せる者はいなかった。
有馬は一度状況を見直すと言い、直弦と三島を伴って地下の隔離室へ降りた。
防爆ガラスの向こう側で、試料は沈黙しているように見える。
だが直弦には、ゲルの層の内側で糸が蠢いているのが分かった。
そこから抜け出た太い糸は、変わらず南西の方角を指し示していた。
「越智」
有馬がガラス越しに試料を睨みながら口を開いた。
「お前がやったのは、延命でしかないんだな」
「はい。河野さんの背中の結び目も、試料から伸びた接続も残っています。おそらく、ここでは解けません」
有馬は直弦を見た。
ここまで、直弦の判断は一度も外れていない。
有馬は、その事実だけを見ていた。
「さっきお前が言った大山祇に戻せば、ほどけるのか」
直弦は一瞬、言葉を探った。全部分かっているわけではない。だが、見えている力の向きはそこしかない。
「ほどける可能性は高い、です。……少なくとも、ここにこのまま置いておくよりは」
三島はそのやり取りを聞きながら、静かに目を伏せた。
否定はしなかった。
三島はしばらく黙ったあと、口を開いた。
「星降りの夜以来、大山祇神社の周辺では、目に見えない揺らぎのようなものが強まっています。我々も、それを通常の自然現象だとは思っていません」
三島は一度だけ、救護室の方を見た。
「澪は、幼い頃からその手の揺らぎに敏かった。彼女を今回連れてきたのは……正しかったのかどうか、私にもまだ分かりません」
短い沈黙のあと、三島は直弦へ視線を戻した。
「だが、起きてしまった以上、何とかしなければならない。あなたも、昔からこういうものを見てきたのですか」
直弦は少しだけ息を詰めた。会社の人間には決して踏み込まれない領域。
「……見えていたものは、あります」
直弦は視線を反らさずに答えた。
「ただ、誰にも説明できなかっただけです」
三島は小さく頷いた。
それ以上は踏み込まなかった。
直弦も説明しなかった。
会議室に戻ると、志保は手元のタブレットを確認しながら、段取りを口にし始めた。
「県への報告はこちらで通します。来訪者の体調不良に伴う帰島対応として処理します。車両は試験ロットの緊急移送扱いにできます」
志保はタブレットを操作しながら続けた。
「問題は、あの試料を同じ車両に載せるかどうかです」
「危険物を社外へ持ち出すなど論外だ」
桐野が即座に反対した。
「しかも島へ運ぶ? 移送中に事故が起きたらどう責任を取るつもりだ!」
「我々としても、得体の知れないものを軽々しく神域へ持ち込ませたくはありません」
三島も慎重な姿勢を崩さない。
「しかし、澪の身体と繋がっている以上……」
「試料を残して彼女だけ動かした時に、何が起きるか僕にも読めません」
直弦が静かに言い切った。
「逆も同じです。距離を取っても切れる保証はない。むしろ今は、片方だけ動かす方が危ない。無理に引っ張れば、どちらかが壊れる……そんな気がします」
読めない。
その言葉だけで、桐野も真鍋も次の言葉を失った。
誰も、結果を保証できない。
有馬はしばらく黙っていたが、やがて腹を決めたように言った。
「……越智、お前が行け」
「え?」
直弦が有馬を見返す。
「自分で手をつけた以上、最後まで面倒を見ろ」
有馬は直弦を見たまま、もう一度はっきりと言った。
「お前なしであの物質の管理は難しい。妹尾、試料の移送条件と車両の段取りを急げ」
「ですが本部長、一介の研究員に……」
桐野が食い下がるが、有馬は首を横に振った。
「桐野さん、技術本部として私が責任を持ちます。移送条件はあなたの基準で詰めてください」
桐野はなおも言い返しかけたが、有馬の言葉に押し黙った。
「……移送ケースは二重固定。走行中の開封は禁止。異常値が出た場合は即時連絡。そこまでは譲れません」
「それでいい」
有馬が答えると、真鍋はすぐに県の担当へ電話をかけた。
志保はタブレットに移送条件を打ち込みながら、車両と緩衝材の手配に入った。
有馬は直弦を信じ切ったわけではない。
それでも、今この場から外せないことだけは認めていた。
出発の準備が慌ただしく進む中、直弦は救護室の澪の元へ向かった。
澪は志保が用意した温かいお茶を飲んで、少しだけ落ち着きを取り戻していた。
大三島へ戻ると聞いた時、澪の表情はほんの少しだけ緩んだ。
得体の知れない岡山の研究所にいるより、慣れた島へ帰る方がまだましなのだろう。
だが、直弦が同行することを知った澪の顔は複雑だった。
「……本当に来るんですか」
「行かないと、たぶん切れないので」
直弦が事実だけを述べると、澪はあからさまに嫌な顔をした。
「……言い方」
「すみません」
「今の、謝ったつもりですか」
「一応」
「感じ悪いです」
「……よく言われます」
ぎこちない、刺々しい言葉の応酬。
直弦には、彼女を安心させる言葉が出てこない。
慰めようとしても、たぶん余計に悪くする。
澪もまた、直弦を信用したわけではない。
それでも、会話の形にはなっていた。今はそれでよかった。
午後二時前。研究所の裏口には、平原化学のロゴが入った移送用の黒い大型ミニバンが横付けされていた。
荷台には、ゲルの層で厳重に保護され、さらに特殊な緩衝材で覆われたケースが固定されている。
直弦はミニバンに乗り込む前、最後に地下の方角を振り返った。
視界の端に映る景色は、もう昨日までのものとは違っていた。
荷台に固定されたケースの中からも、目の前でバンに乗り込もうとしている澪の背中からも、青白い太い糸が同じ方角へぴんと張られている。
三島は硬い表情のまま、荷台に固定されたケースを見ていた。
志保はタブレット片手にチェック項目を潰している。
有馬は黙って移送車の前に立ち、桐野は最後までケースから目を離さなかった。
澪は後部座席で、三島の隣に座っていた。
不安と疲労を抱えながらも窓の外、南西の空を見つめている。
「出します」
運転席の社員の声が響き、バンのエンジンが低く唸った。
直弦は助手席のドアを閉めた。
研究所では抱えきれないものを乗せたまま、車は吉備スマートインターチェンジへ向かって走り出した。
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