第5話 仮調律
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「澪!」
三島の声が地下の観察室に響いた。
防爆ガラスの向こう側で、ケースを覆っていたゲルにバリッと乾いた音を立てて新たな亀裂が走る。
澪は胸元を強く握りしめたまま、膝から崩れ落ちた。
三島が間一髪でその身体を支えたが、浅く引きつった呼吸はなかなか戻らない。
「離れろ! 全員ガラスから下がれ!」
桐野の怒鳴り声が飛ぶ。
「ケース内圧は。ガス漏れはあるか」
有馬がインターコム越しに短く確認する。
「分かりません、計器の数値は正常です! でも外装材の劣化が急速に進んでいます!」
周囲の視線は、割れたケースと計器に集まっていた。
だが、直弦だけは澪の背中を見ていた。
澪の背中側。制服のブレザー越し、心臓の裏側あたりに、空間そのものがねじれたような薄く青白い結び目が浮いている。チャンバーの中の試料から伸びた太い糸が、ガラスを透過し、その結び目に深々と食い込んでいた。
繋がっている。直弦は唇を噛んだ。
貧血でもパニックでもない。
あの糸が、澪の内側へ食い込んでいる。
「救護室へ。産業医にも連絡を入れろ。救急要請の準備も」
真鍋がスマートフォンを取り出しながら早口で指示を出す。
「待ってください」
三島が血の気の引いた澪を抱えながら、真鍋を制した。
「病院へ運ぶなとは言いません。ですが、これはただの発作ではない」
「しかし、外部の人間をこれ以上このフロアに留めておくわけには……」
「離しても……たぶん切れません」
直弦の声が、混乱していた室内を一瞬で黙らせた。
桐野が顔色を変えて直弦を睨んだ。
「越智。貴様、この状況が分かっているのか」
「分かっているから言っています。今ここで何とかしないと、彼女の身体が持たない」
直弦は桐野を無視し、有馬を見た。
有馬は、直弦の顔をじっと見ていた。
何を見ているのか、測っている目だった。
「越智」
有馬は低く問うた。
「お前、何が見えてる」
直弦は一瞬だけ口を閉ざした。糸が見えると言っても理解はされない。
「試料と彼女の間に、繋がりができています」
直弦は少しだけ言葉を探した。
「位置は背中……たぶん心臓の裏に近い。おそらく距離を離しても、その干渉は切れません」
桐野が何かを言いかけたが、それを遮るように澪が小さく呻いた。
彼女の顔は蒼白を超えて土気色になり、額には脂汗が浮いている。
三島が、縋るような、しかし探るような強い視線で直弦を見た。
「あなたには、それが分かるのですか」
「全部ではありません」
直弦は三島の目を見返した。
「でも、ズレているのは分かります」
一行は急遽、同じフロアにある救護室へ澪を運び込んだ。
硬いベッドの上に横向きで横たえられた澪は、まだ苦しそうに胸を押さえている。
直弦はベッドの脇に立ち、彼女の背中側に浮いた結び目をじっと見た。
見ているのは、力の向きだった。澪の内側に入り込んだものは、本来は守る側の性質に近い。そんな気がした。
「一時的に向きを変えます」
直弦は、傍らに立つ三島と志保に告げた。
「ほどくのは難しい。でも、方向を変えられれば、少しは持たせられるかもしれない」
直弦の手には、観察室から救護室へ移る途中で志保が持ってきた発酵由来緩衝ゲルのシリンジと、旧配合の塩の包みがあった。
「背中側からやります」
直弦はベッドの上の澪を見下ろした。
「心臓の裏に近い位置です。布越しではズレが読めない」
直弦は言葉を切り、志保を見た。
「背中側だけでいい。処置できる状態にしてください」
その言葉に、澪が弾かれたように目を開けた。
痛みに霞む目で直弦を睨みつける。
「……なんで、あなたにそんなこと」
息は浅い。それでも、拒絶だけははっきりしていた。
「さっきから、人のこと勝手に分かったみたいに……触らないで」
直弦は小さく息を吐いた。自分が彼女にどう見えているかは分かっている。
初対面で無遠慮に見てきた男に、得体の知れない処置で背中を触らせるなど、拒絶して当然だった。
「嫌なら、別の方法を探します」
直弦は言った。
「ただ、時間はありません。今もズレが深くなっている」
「……っ」
澪の目に怒りが滲む。
直弦の言い方は、弱っている相手をさらに追い詰めるだけだ。
三島が困惑したように間に入ろうとした時、志保がスッと澪の枕元に立った。
「澪ちゃん。私もここにいるわ」
志保は澪の冷え切った手を両手で包み込んだ。
「背中側を少し開けるだけ。必要なこと以外はさせない。嫌なら嫌って言っていい」
志保は、澪の手を握ったまま続けた。
「でも、時間がないのも本当。この男、口は最悪だけど、仕事は確かよ」
志保の静かで温度のある声が、張り詰めていた澪の強張りを少しだけ解いた。
澪は志保の顔を一度見て、それから忌々しそうに直弦を睨み、力なく小さく頷いた。
納得したわけではない。
今はそうするしかなかった。
だが、直弦にはそれで十分だった。
「では、やります。できるだけ動かないでください」
志保が澪に目で確認しながら、ブレザーを外す。
ブラウスは、肩甲骨の下が見える程度にだけ開かれた。
直弦はゴム手袋をはめた指先にゲルを絞り出し、旧配合の塩を素早く混ぜ合わせた。
「――――」
直弦の指先が、澪の背中、肩甲骨の下のあたりに触れた。
その瞬間、直弦の視界が白く飛んだ。
耳の奥で、細い金属線を何本も弾いたようなノイズが弾けた。
痛い。
他人の内側に食い込んだ糸へ触れるだけで、ここまで跳ね返ってくるとは思っていなかった。
直弦の手首から肘にかけて、焼けるような痺れが駆け上がる。
だが、直弦は指を離さなかった。
結び目のズレを読む。
糸は、ただ外から刺さっているだけではなかった。
澪の側にも、受け入れてしまう向きがある。
そう見えた。
(何を考えているんだ、この娘は)
直弦は歯を食いしばりながら、ゲルの層を薄く結び目の上に滑らせた。
ゲルの層で受け止め、塩で押さえながら、力の向きだけを外へ逃がす。
「全部、自分で受けようとするな」
直弦の口から、自分でも思ってもみなかった言葉がこぼれ落ちた。
ビクッと、指先の下で澪の身体が震えたのが分かった。
触れられたくない場所に触れた。
直弦にも、それだけは分かった。
「息を吸って、吐け。止めるな」
直弦は声を落とし、処置を続けた。
反発しようとする青白い糸をゲルの層で受け、塩で押さえる。
数秒が、やけに長く感じられた。
やがて、直弦の腕を焼いていた痺れがすっと引き、視界のノイズも薄れていった。
「……終わりました」
直弦は澪の背中から手を離し、手袋を外した。
澪の引きつっていた呼吸が、少しずつ整っていく。
胸を押さえていた手の力も抜け、顔色に少しだけ血の気が戻っていた。
「澪、大丈夫か」
三島が安堵の声を漏らす。
「……はい」
澪は志保に手伝われてゆっくりと身を起こした。
彼女は自分の胸のあたりを不思議そうに撫でている。
楽になりきったわけではなかった。
直弦にも、それは分かっていた。
結び目はまだほどけていない。試料から伸びる太い糸も消えていない。
それでも、内側を裂こうとしていた力はひとまず止まっていた。
桐野は壁際で不満げに腕を組んだままだが、結果が出た以上は何も言えない。
有馬は直弦の手首が微かに震えているのを見逃さなかったが、あえて口には出さなかった。
澪はベッドの上に座ったまま、しばらく黙っていた。
やがて、澪は不本意そうに、それでも目を逸らさず直弦を見た。
「……ありがとうございました」
かすれるような声だった。礼を言っているのに、どこかまだ棘が残っている。
「……別に、礼はいりません」
直弦の可愛げのない返しに、澪は再び不機嫌そうに目を伏せた。
助けたからといって、距離が縮まったわけではない。
直弦は処置を終えた指先を握り込みながら、再び澪と試料の間に張られた糸の気配を探った。
一時的に安定したことでノイズが引き、構造が見えやすくなっていた。
研究所の地下にある試料から澪へ繋がる糸。
だが、それだけではなかった。
澪の背中に残った結び目から、もう一本、さらに太く強い糸が生えていた。
それは壁を抜け、南西の方角へ真っ直ぐに伸びていた。
「……南西か」
直弦は低く呟いた。
「ここで完全に切れるものじゃないな」
三島が顔を上げた。
直弦は、澪の背中から伸びる糸を見たまま続けた。
「向こうに、戻る先があります。彼女も、あの石も、そっちへ引かれている」
「向こう、とは」
三島の問いに、直弦はもう迷わなかった。瀬戸のしまなみに浮かぶ、あの場所。
「大山祇です」
直弦の口から出たその名前に、三島は静かに目を伏せたまま、否定しなかった。
澪は何も言わなかった。
ただ、自分の胸元を押さえたまま、直弦と三島の顔を見比べていた。
研究所で止めたのは、ほんの一息ぶんにすぎない。
この結び目をほどくなら、あの島へ行くしかない。
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